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フェアと美しさ
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2008/03/18 by
, [Linguistics]
英語で「公正」を意味する fair という語には、「利害や感情を排する」というニュアンスがあるが、もともとは古英で「美しい」を意味した語である。「美しさ」と「感情を排すること」が近い概念である点に着目すると、英語圏における fair という概念をまた違った角度から眺めることができる。
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日本人の国語力
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2007/03/02 by
, [Education,Japan,Linguistics]
書店に立ち寄ったところ 大人の「国語力」が面白いほど身につく! という本が平積みになっていたので立ち読みしてみた。買いもせず立ち読みしただけで amazon.co.jp へのアフィリエイトリンクを貼るのもいかがなものかと思うが、最近またアフィリエイト亡者と化している ultraviolet が wordpress の plugin をいろいろいじってる様子で、ご容赦頂きたい。 日本人にとって「国語」とは何なのだろう、という話は以前から疑問に思っていたのだが、この本を読んで「ああやっぱりそうなのだな」との思いを新たにした。 どうやら日本人にとって国語とは「人前で恥ずかしい思いをしないような言葉の使い方」であるらしい。「何かを伝えるための手段」では無いし、「言語によって論理的に思考するための方法」でも無い。 言葉を替えると、「自分が集団の一員であることを示し、仲間外れを防ぐための手段」ということになるだろうか。学校の国語教育がそれを目指すのも当然と言えば当然だし、コミュニケーションや論理的思考の方法を国語の時間に全く教えないのも致し方無いことなのだろう。文芸観賞に流れがちなのも、「大人になって恥ずかしい思いをしないように」文芸作品を教養として知っておかせたいという配慮が遠因にあると見る。 最近騒がれた「ら抜き言葉」や敬語の使い方などいわゆる「言葉の乱れ」論争も、結局のところこの「帰属証明のための国語」という枠組を一歩も出ていないように思える。守旧派は「古き良き伝統的日本」への帰属を叫び、「言葉は生き物」派は「今風の言葉を使う若者的集団」への帰属を重視する。しかし今本当に「国語」について考えなければならない問題は果してそこなのだろうか。
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確かに、まず日本語ではあるが
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2006/02/04 by
, [Japan,Linguistics]
内田樹の研究室に掲載された まず日本語を を読んで考えたこと。 私も理想的にはそのように日本語教育を徹底することで論理的思考や対話能力を高められたら素晴らしいと思うし、確かにそれが部分的に可能なところもある。しかし残念なことに「ロジカルで音韻の美しい日本語の名文」というものはほとんど存在しないと言ってよい。存在したとしてもそれは「文法的に日本語である」というだけで、我々のイメージする日常的な日本語とはかけ離れたものになってしまう。我々の使用している日本語は本質的にロジカルでないし、また対話も存在しない。あるのは空気を醸成するためのモノローグの集合だけだ。 実は私自身、小学校の頃からしつこく音読をさせられてきたため、音読がたいへん効果があるということは身をもって知っている。私が英文をそれなりの速度で読めるのも、幼少時に日本語を音読してきた賜だと考えている。 しかしその私でさえ、まともな文章を書けるという自信がついたのは、会社で英作文の研修を受けてからだった。英文を書くようになって初めて文章の書き方というものを理解でき、日本語の文章力も向上したと思う。日本の学校は日本語の書き方について何ひとつ教えていない。おそらく日本語について日本語で教えるということ自体に無理があるのではなかろうか、と考えている。 この点についての指摘としては、今から8年前に西村肇氏が「言語」誌に寄稿した「論理的な表現とロジカルな表現」が白眉だろう。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の文章がいかに非ロジカルかを丁寧に説明した後、次のような文章が続く。 したがって結論として言えば、私は単純に日本語をロジカルにしようとする努力には疑問を感ずる。日本語の目的はロジカルな対話とか議論による決着にあるのではなくもっと別のところにあるのだろう。それは比較的均質な人間集団がまとまって行動するために「雰囲気」を作るコトバとして発達したのであろう。上下関係と対面を気にし、しかも嫉妬心が強い社会の中で上下に自己実現をはかるためには欠かせない表現手段だと思う。それはそれで非常に大事なことではないか。ロジカルな表現で議論する必要があるなら、それに適したコトバでやるほうがよい。英語でやるほうがよい。日本人同士でも。これからは、それができる教育が必要だと思う。そしてその影響が自然に日本語にもおよんで来るというのが、実際的な解決だと思う。 非の打ちどころのない正論である。 最近の西村氏はさらに遠いところまで行ってしまわれたようで、Comunication in Japanese などを読むと「知的活動の足を引っ張る日本語」など過激な指摘が並んでいるが、たしかにいちいちもっともなものではある。 繰り返すが、音読に素晴らしい効果があることは間違いなく、日本語を音読させることが教育の第一段階として必須であることにも異論は無い。しかしそれは最初の一歩に過ぎない。それと並行して、日本語以外でロジカルかつ美しい文章を音読させることも重要だろう。外国人と会話するためではなく、日本語をロジカルに駆使するために。 もちろんそれが英語である必要は無い。英語よりもロジカル性の高い言語としては、ラテン語あたりもお勧めかと思う。某藩お抱え漢学者の末裔である ultraviolet だったら漢文を勧めるかもしれないが。 2006/02/05 追記: この記事が予想外に反響を呼んだようだ。普段のこの blog では考えられないほど様々なフィードバックを頂き、私の文章に至らぬところがあったと痛感したので、いくつか補足しておきたい。 まず「ロジカル」という言葉の意味について。これは西村肇氏が「論理的な表現とロジカルな表現」の中で使った語をそのままの意味で私も使っているのだが、このタイトルが示すように、「ロジカル≠論理的」である。「ロジカルな表現」というのは「論理的な表現」という意味ではない。むしろ、一部の方から指摘があったように、「レトリカルな表現」の意味の方に近い。しかし英語圏で logical と言えば実際にこちらの意味で使われている。この点について紹介しているページ を見つけたので、ぜひ参照されたい。 次に、母国語とパーソナリティは切り離されて存在するのか、という批判を頂いたが、私も「言語とパーソナリティは相互に強い影響を与えている」と考えている。だからこそ母国語以外の言語を学ぶことが重要になる、との考えだ。 これについてもやはり「論理的な表現とロジカルな表現」の中で象徴的な例が出てくる。アメリカからの帰国子女でバイリンガルな女性なのだが、日本語で会話しているときは控え目でいかにも大和撫子という感じなのに、英語で会話するときには急に自己主張が活発になる方がいらっしゃるのだそうだ。 使う言語はパーソナリティにも影響を与える。その影響は、単に日本語を日本語のままでロジカルにしようとするだけの場合よりも、遥かに大きい。それが、日本語以外の言語を奨める理由である。 最後に、そうやってマルチリンガルでロジカルな思考を習得した場合に何も問題が起きないかとの点だが、起きないわけでもない。まだ証明されてはいないのだが、昔からよく言われていることとして、マルチリンガルな環境の人間は情緒的な文学表現能力が低下しがちである、という点は指摘されている。例えばスイスで文学があまり発達しなかった理由としてこれを挙げる人は多い。 この点はまさに日本人が得意としてきた分野であり、それは日本人が外国語音痴であることとも符合する。マルチリンガルな環境へと切替えた場合、この面についての機能低下が起きることは覚悟せねばなるまい。ひょっとしたら、影響は文学だけでなく、他の日本が得意とする情緒的芸術分野、たとえばアニメーションなどにも及ぶかもしれない。 ただ、それを考慮してもなお、日本人のロジカル思考化は21世紀の国際社会において必須、というのが私の持論だ。もちろん日本人の間で分業するという手もあり得るが。
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Lotus Eater
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2006/01/18 by
, [Linguistics,Media]
Wired が記事につけるタイトルは、妙に凝っているというか、捻り過ぎだったりスノッブに感じられることも多々あるのだが、往々にして面白い。 Microsoft, Lotus Eater? は、Microsoft が Lotus Domino/Notes ユーザを Exchange に乗り換えさせようとしていると報じる記事。Lotus を飲み込むという意味のタイトルなのだが、この Lotus Eater という語には「浮世離れした夢想家」という意味もある。ギリシャ神話のオデュッセイアに出てくるロトパゴスのことで、蓮 (lotus) の実を主食としている人々なののだが、その実には食べた人の欲望や意欲を薄れさせる作用があり、平和かつ無気力に暮らしている、という話である。Lotus Eater の対極とも言うべき Microsoft にこの語を使うところに皮肉が効いている。 前々から思っていたのだが、英語圏のインテリ層向け新聞・雑誌の記事タイトルは、このように単語数語の短いタイトルの中に捻った意味を持たせているものが少なくない。Time, Newsweek や Slate なども同じ傾向がある。一方日本のマスメディアの記事タイトルには、どれも一様に饒舌/説明し過ぎの傾向が見える。この記事も HotWired 日本語版に掲載されるときには長ったらしいタイトルになってしまうのだろう (Newsweek日本語版のように)。俳句を生んだ民族がなぜこうなってしまったのか、個人的に興味深く感じる。
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北京語の遠隔授業
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2006/01/15 by
, [Education,Linguistics]
eSchool News Online の記事 によると、近年アメリカの高校では北京語の学習熱が高まってて、でも北京語を教えられる教師のいる都市がかなり限定されるので (サンフランシスコのチャイナタウンには大勢いるけどケンタッキーのあたりには全然いないとか)、遠隔授業が注目されてるらしい 2003年の調査では、ロシア語を教えてる高校が50, 日本語が175, イタリア語が240に対して北京語が2,400と言うから、たしかにかなり熱っぽい これを受けてアメリカ上院では、公立学校での北京語学習を援助するために130億ドルの予算を計画中とか オレゴン州の学区は幼稚園から大学まで一貫して北京語を教えるプログラムに70万ドルの補助金を勝ち取ったらしいけど、補助金を出してるのが国防省というのもなんだか 思ったんだけど、「一番近い教師まで数百km」とかいう環境でないと、遠隔授業って流行らないのかも
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Not installing WordPress 2.0? Why?
on
2006/01/12 by
, [WordPress]
, bilingual
Here is our answer to asymptomatic’s Not installing WordPress 2.0? Why? The biggest problem is the lack of Eastern Asian language support. Our Rauru Blog install of 1.5.2 is heavily modified for Japanese environment, including excerpts patch. Of course we’ll work on 2.0 once we find its code stable enough. We’ve started to modify our [...]
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Wikipedia ラテン語版
on
2005/12/02 by
, [Linguistics,Wikipedia]
, bilingual
A thread in Paradox Interactive‘s Off Topic Forum argues that Latin Wikipedia is a mess, saying MHO these articles are horrible. Language is usually correct, but style isn’t good. These are like school essays. There is no eloquence or imagination in the language of these texts. They should really look classic, medieval and reneissance Latin [...]
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言葉の乱れ
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2005/11/02 by
, [Linguistics]
いつもながらためになる Slate だが、今日の The Word We Love To Hate : Literally も面白かった。 Literally という語は「文字通り」の意味だが、最近の若いアメリカ人はこの語を比喩表現に使うのだそうだ。He literally exploded with rage のような形で。それは全然「文字通り」では無いだろう、と、年配のアメリカ人は「英語の乱れ」として非難する。どこかの国でも聞いたような話であるが、そこはさすがアメリカで、Literally の間違った使われ方を報告するだけの blog まで存在しているらしい。 これに対してこの記事では、Oxford English Dictionary の編集者である Jesse Sheidlower が「実は昔から比喩表現に使われている」との解説を書いている。OED にもその用法で載っているのだそうだ。 これを読んでいて、日本語の「全然」の用法の話を思い出した。 「全然」という語は本来否定文でしか用いられなかったものである。しかし周知のように最近の若者はこの語を「全然素晴らしい」のように肯定文の強調として使う。これに対する「日本語の乱れ」との批判もよく目にする。 しかし、実は「全く」という語もこれと同じ道を辿って現在に至っている、ということはあまり知られていない。もともと「全く」の語は否定文でしか用いられなかった。それが昭和の初めぐらいから「全く素晴らしい」といったように肯定文の強調で使われるようになった。当時の新聞では「最近はなんと日本語が乱れていることか」と嘆かれていたらしい。歴史は繰り返す。 さて、Sheidlower のような言語学者は「言葉は生き物であるから変化してあたりまえだ」と主張し、新しい用法を擁護する。「言葉の乱れ」を非難する人々に対しては「言葉の歴史もろくに知らないお前達素人に乱れ云々を批判する資格などない」と言いたげだ。そうした新しい用法を収集することが彼ら言語学者の飯の種なのだから、自分の食い扶持を守るためにもそれを擁護するのが当然だと言える。「正しい言葉遣い」が確定して、未来永劫それが唯一の用法、ということになると、言語学者の大部分は失業してしまう。 ただ私は、今の日本について言えば、それでもやはり「言葉の乱れ」批判派の肩を持ちたい。その理由は、最近の言葉の新しい使われ方というのが、若者らしい創造性からではなく、無知と思考停止から生まれてきている、という点が気になるためだ。 この新しい概念は従来の言葉では言い表せない、辞書を当たって良い語が無いか探してみたが見当たらなかった、だから新語を作ろう、俺の持てる創造力を注ぎこんで生み出したのがこの語だ、と言うのであれば、私は大いに評価する。 しかし、最近の若者言葉の大半はそのように見えない。単に、自国語に対する知識を失い、適切な言葉を選ぶ努力を怠り、表現に対して無神経になった結果、というように私には見えるのだ。 あるいはこう言えばいいだろうか。私は「言葉の乱れ」なら許容できる。しかし「頭の悪さ」は許容できない。何より許せないのは、この二つがリンクして「頭の悪くなる方向に言葉が乱れている」という点だ。頭の良い方向に言葉を乱そうじゃないか。
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ブッシュのジョーク
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2005/10/03 by
, [Humor,Linguistics]
このジョークは、理解できるまで数分かかったが、良くできていると思う。 ラムズフェルドがブッシュ大統領へのブリーフィングの最後にこう言った。 Three Brazilian soldiers were killed in Afghanistan 「アフガニスタンでブラジル兵が3人殺されました」 ブッシュは「おお、神よ」と叫んで顔を両手に埋めた。 数分間泣いた後、ブッシュはラムズフェルドを見上げてこう聞いた。 How many zeros is in a brazilian? 「ブラジリアンって、ゼロが何個付くんだい?」 ジョークを解説するのは不粋の極みと言われるが、これは解説が必要そうに思うので、以下に不粋な解説を。 日本語で言うところの「億」「兆」「京」などに相当する数の単位として、英語には Billion, Trillion, Quadrillion などがある。いずれも -illion で終る。これらとは別に Zillion や Gazillion と言った語もあるのだが、これは数学用語ではなく、「とにかくでかい数」という意味の俗語である。なのだが、この区別のつかないアメリカ人は多いようで、「Gazillion ってゼロが何個つくんだい?」という質問はよく見かけられる。 ブッシュ大統領は「英語に弱い」ことと「外国のことに弱い」ことで有名だが、この二つを合わせたのがこのジョークの味噌である。Brazilian がブラジル人だということに気付かず、Zillion/Gazillion の親戚だと思ってしまったわけだ。一見ブッシュがたった3人のブラジル人のために嘆いたと見せかけておいて、実は自国兵の膨大な犠牲を嘆いていただけ、という点も笑いを誘う。また、そんなにゼロが何個もつくほど戦死者が出たということをブッシュが不思議と思わない、という点でブラックでもある。
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半カレー
on
2005/10/03 by
, [Linguistics]
コンビニで売っていたデミカレーというレトルトのカレーを試してみたが、味はいまいちと感じた。 ところでこのデミカレーという名前は、デミグラソースを使ったカレーだからそう名付けられているらしい。しかし Demi と言えば「半」を意味するラテン語由来の接頭辞であり (例えば Demigod と言えば半神 — つまり神と人間のハーフを指す)、名前だけ聞くと「半カレー」と言ったわけのわからないイメージが頭に浮かぶ。 もともとデミグラというのが Demi Glace つまり「半煮こごり」の意味で、その意味を考えることなく単純に頭からカタカナ二文字を取ってくるのでこういうことになるわけだが、しかしまあ、このいまいちな味は「半カレー」の名前にふさわしいと言えるかもしれない。