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	<title>Rauru Blog</title>
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	<description>Blog by Rauru Block Agents</description>
	<lastBuildDate>Mon, 29 Jun 2009 09:16:46 +0000</lastBuildDate>
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	<item>
		<title>Wikipedia の報道協定</title>
		<description>先週 APF などが伝えたニュースだが、昨年秋にアフガニスタンでタリバンに誘拐・監禁されていた New York Times の David Rohde 記者が、脱出して保護されたらしい。
私はこの誘拐されていたという話を全く知らなかったのでどうしたことかと驚いてよく読んでみると、この誘拐事件については New York Times 等マスメディアの間での報道協定により、報道が自粛されていた模様だ。

しかし同じ New York Times の別の記事 Keeping News of Kidnapping Off Wikipedia  を読んでさらに驚いた。この記事によれば、Rohde 記者誘拐事件について Wikipedia 上でも何度かユーザによる編集として書き込まれたことがあったが、いずれも報道協定によって削除されてきたのだと言う。削除は Jimmy Wales と Wikipedia 管理者達、そしてイギリスの The Times 紙との協力によって行われた、とこの記事では述べている。New York Times の公式スポークスマンから Jimbo に対して直接報道協定の申し入れがあった模様である。

記事中で Jimbo が述べているところによれば、この誘拐事件については他のマスメディアが沈黙していたことから、「信頼できるソースが無い」ということを削除理由として処理されていた様子だ。確かに管理者としても扱いやすい状況だったと言うことだろう。
それでも記事中には管理人とユーザとのやり取りがヒートアップしていく様子が描かれており、興味深い。誘拐事件についての記述に固執するユーザもいたようで、先週 Rohde 記者脱出の報が世界を駆け巡ると、管理人に「ほら見ろ、削除は間違いだったじゃないか」との罵声が管理者に浴びせられたそうだ。Wikipedia 管理者というのも同情されてしかるべき立場かと思う。

この事件は、Web2.0的な市民ジャーナリズムと検閲との関係がなかなか一筋縄ではいかないということを改めて思い起こさせるものだと言える。CGM への報道協定の適用は、いったい誰がどのように判断してどう適用すべきなのだろうか。マスメディアはいずれ滅亡するがその後は現在のマスメディアが負っている責任をユーザ1人1人が負わねばならなくなる とは ultraviolet ...</description>
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		<title>著作権とフロンティア</title>
		<description>一年半以上前に  著作権の歴史 と題して、イギリスでの著作権制度がどのような過程を経て成立したかを説明した。いささか時間は経ってしまったが、今回はその続きとして、アメリカで著作権制度がどのような生い立ちをたどったかについて、私の考えを書いてみる。
今さらこのようなエントリを起こす理由だが、巷で話題になっている Google Book Search について、また別の角度から眺める視点として有益ではないかと考えるためだ。



17世紀以降の北米植民地では、イギリスのような出版者ギルドこそ無かったものの、出版業界が発達してくる。その多くはイギリス人著作物の海賊版であり、著作者の保護というものは全く考えられていなかった。そうした中で、書籍出版による利益が出版者に貪られ、アメリカ人著作者には雀の涙のような原稿料しか入らない、という状況が大きくなっていき、やがて植民地政府に対し「著作者の保護」を訴える動きが出てくる。
このような経緯の結果、アメリカでは「圧制者の搾取に対して民衆が自分の財産権を主張する」という視点から著作権が捉えられるようになった。著作権とそこから得られるはずの利益を自然な財産権と見なす考え方である。そしてアメリカ独立宣言からさして間を置かない1790年、まだ独立戦争も終わっていないうちに、最初の著作権法 が連邦法として制定された。多くの部分でイギリスのアン法をそのまま踏襲しているが、イギリス法的な産業振興策の側面よりも自然権保護の観点を強く持つと考えられている。.

アメリカ人がこのような「自然権としての財産権」との考え方にいたった背景には、独立戦争のゴタゴタの中にあってドナルドソン対ベケット裁判などの情報がよく伝わらなかったという原因も指摘されているが、もう一つ、「早い者勝ちでフロンティアを切り取って行く」というアメリカ開拓の歴史が大きな役割を果たしたと私は考えている。島国イギリスはゼロサム性が強く、誰かが土地を独占すれば他の人が追い出されるのが当然だった(エンクロージャなど)。しかし開拓初期のアメリカには無限とも思える無人の(つまり先住民だけが住んでいる)土地があり、1人の開拓者が一定範囲の土地を独占しても他にいくらでも土地がある(つまり先住民から収奪すればいい)という状況だった。やがて高利益率の土地は囲いつくされたが、このアメリカ人のメンタリティは変わっておらず、土地以外に早い者勝ちで独占できるようなフロンティアが必要とされている。Second Life のようなサービスが生まれれば皆が飛びつくわけである。以前書いたアメリカ経済にはフロンティアが必要という話と絡む。
アメリカ人は、著作権もフロンティアの一種だと見なしている。想像力さえあればいくらでも新しいものを生み出すことが可能で、それを早い者勝ちで切り取って行く、という考え方が、アメリカ人のメンタリティと良くマッチするのだ。

さて、近年の Google Book Search の動きだが、これを「著作権制度への挑戦」と見る向きが巷では多い。確かに既存の著作権制度と正面からぶつかる動きであることは確かである。しかし同時に私は、上述した「早いもの勝ちでフロンティアを切り取っていく」という考え方、アメリカ的著作権制度の源流に流れるいかにもアメリカ的思想を、この Google Book Search こそが実にストレートな形で継承していると考える。
このため、Google と著作権者との対立も、確かに正面からぶつかってはいるが、底流では両者に共通したものがあり、それほど深刻な対立にはならないだろうと私は踏んでいる。結局のところ「どちらが強いか」という西部開拓時代的な部分で決着されることになり、現時点ではそれが和解条件という形でひとまず落ち着いている。

一方、アメリカ以外の国ではいささか事情が異なる。特に、ゼロサム性の高い島国であるにも関わらず著作権の扱いについてはアメリカ式の財産権的考え方の影響を強く受けている国、不平等条約撤廃のために迂闊にベルヌ条約に加盟してしまった上にプラーゲ対策で作られた著作権仲介業者がそのまま既得権益を拡大するという泥縄式に制度が出来上がってしまった国、つまり日本のことなのだが、そこでは全く異なる事情が存在する。
日本には「早い者勝ちでフロンティアを切り取って行く」という動的な思想は無い。財産権としての著作権は静的なものと受け止められており、静的な社会秩序の中に位置づけられている。Google Book Search のような動きは、新しいフロンティアを切り取るものとは認識されず、静的な秩序を乱すものだと捉えられ、被害者意識に凝り固まった怨嗟の声 が上がることになる。干場弓子氏の書いた記事などは、その心理をうまく言い当てている。

「グーグル和解問題」、どこが問題か？　●干場 (ディスカヴァー社長室ブログ)

そうした「実」よりは、そもそも、著作権者に無断でスキャンしてコンテンツを自分の所に事実上、独占的に集積し、そして、売る、ということに、たとえそれが、知の共有という高邁な理想から始まったものだとしても、違和感を感じる、というのがみなの思いじゃないだろうか？　資本とインフラに物言わせて、やったモン勝ち、早いモン勝ちみたいで。

全くその通りなのだが、アメリカ人の考え方に基づけば、もともと書籍出版を含めた創造行為全てが「早いモン勝ち」の上に成り立っているのだ。その点に大きなすれ違いがある。この部分の考え方の違いはかなり深いため、摺り合わせは相当に困難だろうと私は見ている。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1920</link>
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	<item>
		<title>コンテンツに付随する価値</title>
		<description>P2Pとかその辺のお話@はてな の 岸さんの言うとおり！既存のコンテンツ産業から搾取するのを止めよう！ で Jamendo が勧められているのを読んだ。その主旨には賛成なのだが、それと同時に我々は「何故 Jamendo の音楽がそれほど聴かれていないのか」について考える必要がある。そこに、「コンテンツ」と呼ぶものに我々が実際に何を求めているのかを考える鍵があると私は考えている。そこを考えれば、Jamendo を勧めることが何故必要かも更に深く理解できるはずだ。

以前 コンテンツの終焉 というエントリを書いたことがあるが、私は「コンテンツ自体の価値」というものをあまり高く認めていない。我々が金を払ってコンテンツを購入するとき、実はコンテンツそのものに価値を見出して金を払っているというよりも、コンテンツに付随する別のものに価値を見出している方が割合として多い。
今回は、その「コンテンツに付随する別のもの」として、効用と手間の二つを取り上げてみる。



コンテンツの効用とは、コンテンツの入手により消費者が得る満足のことを指すが、必ずしもコンテンツそのものの価値と一致しないことに注意されたい。コンテンツの入手により副次的に得られる満足も含まれるし、むしろそちらの方が大きな満足をもたらすことも少なくない。
コンテンツの副次的効用のうち重要なものは「話題性」である。友人や同僚と会話する上でTVドラマの話題についていくことが必須であるといった場面はよく見かけられる。
ハードコアなファン、特に音楽のジャンルでそのようなファンが多いが、そういったファンの間ではこのような話題性を追いかけて音楽を聴くことが毛嫌いされる風潮も存在している。「純粋に音楽が良いから聴く」ことが当然であり、「話題になっているから聴く/友達を作るために聴く」のは邪道である、との考え方である。実は私もその考え方に賛同しなくもない。しかし現実には後者のような聞き方をする人も少なくない。ハードコアなファンであっても、同好のファン同士では会話がたいへん盛り上がるため、「共通の話題」としての効用は極めて高いと考えられる。
人々がこの「話題」としての効用だけを求めて楽曲コンテンツに金を払うとまで言い切るつもりはないが、現実の音楽産業がこの効用に支えられている部分はかなり大きいと私は見ている。ミリオンセラーを支えているのは間違いなくこの効用だろう。
また、共通の話題を効用として売るビジネスを考えた場合、このビジネスは売る側にとって著作権ビジネスと親和性が高い。良い音楽は Jamendo を初めとして世の中に山のようにあるので、「良い音楽ならどれでも良い」という消費者はどれでも安いコンテンツに移ることができる。ところが共通の話題としての効用を考えると、音楽全体よりも例えばメタルといった狭いジャンルで、ジャンルよりも単一のアーティストで、といったように狭い部分で一致していた方が話題として盛り上がる。このため囲い込みが可能となるのだが、囲い込んだ部分でがっちり金を取るのが著作権ビジネスなのだ。
かように、現実の音楽産業を見た場合、純粋にコンテンツとしての音楽を売っていると言うよりも、話題などの効用を売る、そして大規模なプロモーションなどもその効用を高めるために存在している、という側面が強い。これは他のコンテンツ産業にも共通する性格である。一方現状のコピーフリーなコンテンツは、そのような効用を高める施策がまだまだ弱い。Jamendo が広まらないのも、ネットワーク的効用が小さいから、という理由が大きいと私は見る。

もう一つの「手間」だが、私は「コンテンツ自体に金を払わない消費者でも手間を省くためなら金を払う」と認識している。
良い例が iTunes Store や Kindle だろう。同じコンテンツは手間さえかければネット上から海賊版を拾えるかもしれない。しかしそれには探したり取ってきたり時にはフォーマット変換までしたりと言った手間が必要になる。それが、欲しいときに直に探せてダウンロード購入できてそのまま視聴できる/iPodに入った状態になるなら、そのことに金を払う消費者も多いのだ。普段時給800円で働いている人がコンテンツ入手に15分以上かけるなら、200円払って購入した方が経済的には合理性がある。
そういう意味で私は、iTunes Store や Amazon を、コンテンツ販売業者というより、サービス業者として見なすのが正しいと考えている。彼らはコンテンツ販売で生計を立てているわけではなく、消費者の手間を減らすことで対価を得ているのだ。
音楽や映画などのメディア産業も、もともとはこの「手間を減らす」ことにより対価を得ていた部分が大きかったと私は考えている。ライブでしか聴けなかった音楽演奏をレコードという形で自宅で聞けるようにし、CDによってさらにその手間が減った、など。実はこの部分が近年 CCCD や DRM によっておかしな方向に進みつつあるのだが、これについては後でもう少し詳しく議論する。

上記の二点を踏まえて、コンテンツ産業からの搾取を減らすにはどうしたらよいかを考えてみる。

コンテンツ産業はコンテンツ製作以外に、例えば効用を高めるためのプロモーションに多大な投資を行っている。コンテンツの海賊版はその結果だけを横取りするので、まあ確かに「搾取」と呼ばれても仕方ないかもしれない。私はあくまで「コンテンツ自体に価値など無い」との立場を取るが、その立場を取る場合でも、プロモーション投資へのフリーライダーは確かにフェアで無い行為と感じられる。
ならばそれを整えるべきだろう。ディジタル技術の進歩は情報の複製に巨大資本を不要とした。次はプロモーション投資のような効用を増やす施策に進出し、ここからも巨大資本の必要性を無くして行くべきである。
差し当たっての手としては、「口コミによるプロモーション」が最も手っ取り早く、また Internet の現状にも合っている。したがって、Jamendo を推奨するような blog 記事を書くことは全く正しい。
ただし、巨大資本によるプロモーション投資と blog 等による口コミプロモーションを比較した場合、やはり向き不向きというものがある。現状の口コミプロモーションは「狭く深く」の方向には向くが、マスに薄く広くという広告効果を出しにくい。この点にはまだ改善の余地がある。ただし、Internet というメディア自体の向き不向きもあるので、よく考える必要はある。

それともう一つは、手間を減らすことである。「CDやDVDのパッケージを買ってくる」に比べて、「入手方法を学ぶ」ところから始めなければならないコンテンツは敷居が高いが、これも差し当たっては blog 記事によるプロモーションとセットにして進めることができるだろう。どうやれば簡単に入手できるかという情報を広めるという方法である。
ただ同時に思うのだが、手間を減らす部分は有料サービスとして残しておいた方が良いのではないかと言う気もしている。

効用を高めるためのプロモーションは種まき的な投資だが、手間の削減は実際にマネタイズ可能な収穫過程である。メディア産業が生き残るとしたら、ここか 流通制御 かしかない、というのが私の持論だ。近年のメディア産業は CCCD や DRM などおかしな方向を迷走しているが、「手間削減が金脈」ということが理解できていないわけでは無く、むしろきっちり金を取りつつ手間も減らすための方策を迷走しながら模索している、というの見方を私は取る。
今のメディア産業は迷走しているが、それでもこの部分の独占に掛ける情熱は強い。The Pirate Bay 裁判もその一環と私は見る。BitTorrent の Tracker である The ...</description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1914</link>
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		<title>ゲームの面白さ</title>
		<description>西尾さんの ゲームの面白さに関するブレスト に触発されて、久々に ゲームの面白さ について考えてみた。

ゲームの面白さについて考察することは私も20年以上昔からやっているのだけれど、これについて考察する人のほとんどって、「自分がゲームしてて面白いと思う箇所」についてひたすら考察を深めていくのは得意だけど、「自分には面白いと思えないが他の人によると面白いらしい箇所」について考察するのは一様に不得手だよね、てのが10年程前から感じていること。それぞれ自分の内側だけを見ての議論になって、水掛け論になりやすい。まあこれはゲームの面白さに限らず「○○の面白さ」という主観を扱う議論になると必ず出てくる問題なんだけど、でもゲームではその点が先鋭化しやすい。私がゲームについての議論から遠ざかった背景には、そういう点への反省も理由の一つにあります。
なんで今回は、羹に懲りて膾を吹くべく、この「自分に面白いと思えない箇所」について分析するに留まらず、さらにあっち側に行っちゃって、「こんなところを面白いと主張する人なんて滅多にいないし、もちろん自分にとっても面白いとは思えないんだけど、しかし行動科学的に考えるにここが面白いという結論にならざるを得ない箇所」について考えてみたいと思います。

今回サンプルとして取り上げるのは、作業 です。

世の中には作業ゲーと言う言葉があって、一般にはこれってクソゲーを構成する要素の一つと見なされてるようです。
でも思うんだけど、評価の高いゲームでも、作業的側面って意外とあるよね。クロフォード/コスティキャン的分類で言うところのパズルを解く過程でも作業って結構ある。作業的要素があっても、作業自体が楽しければスルーされて良ゲーと呼ばれ、楽しくなかった場合にだけ作業ゲーというレッテルを貼られることになる。RPGのレベル上げでも楽しく作ってあるものはレベル上げ作業自体が楽しいし。作業自体が悪い要素かって言うと、私にはそう思えないんです。

さらに昔RPGのゲームマスターやってた経験から言うと、プレイヤーに作業をさせるのって結構重要なんですよ。意思決定や知的なパズル、あるいは創造的と称されるようなアーティスティックな活動よりも、むしろ単純作業を大目に盛り込んだ方が、プレイヤーの満足度は高くなる。てのが私の実体験から学んだことです。
それが何故かってのは私も完全には理解できてないんですが、どうも「参加感」とでも言うような何かがあって、単純作業ではあっても作業すること自体が「俺ってゲームに参加してる」的な感覚を高めてくれるみたいなんです。
参加感はソロプレイでも重要ですが、多人数でゲームをプレイするときに特に影響が大きくなると認識してます。人がゲームをプレイするときって、ゲームで複雑な精神活動を発揮して楽しむてのも重要なんだけど、どうもその前に「他人と一緒のゲームをプレイしてるんだ」という実感自体が重要なんじゃないかって気がしてる。マズローの欲求段階説に当てはめて言えば、下の方にある所属欲求になるんかな。なのでここではそういうのを便宜的に低次の面白さと呼ぶことにして、もっと複雑なハードコアゲーマー好みの面白さを高次の面白さと呼ぶことにします。

んでさー、こういう「低次のところが実際には効いてくるんだよ」てな話は、私も含めてハードコアなゲーマーにはあまり好かれないんですよ。特にゲームの面白さを論じたがるゲーム論壇(そんなん本当にあるかは知らん)的な人たちには嫌われ易い。高次の面白さは実はあんまり関係無いんだよ的な結論になり易いかんね。でもそれって、イノベーションのジレンマに似た構図があるよね。

さらに言うと、ハードコアなゲーマーが高次の面白さだと認識してるような要素ってのも、実は低次の面白さを無理やり高次のフレームに当てはめて解釈してることが多かったりする。例えば一時期流行った「ゲームは創造的芸術だ」論の大半はそっちだよねえ。ゲームをポストモダンアートとして捉えてとか、つまり ywad.com の人が東浩紀のオタク論壇について言ってるような話。

ywad.com -- 動物化するポストモダン
著者のもともとの目的は、仮に世の中の人を「モダン」と「ポストモダン」と「オタク」に分けたとして、「ポストモダン」と「オタク」の類似性を強調し、あるいは後者を前者の流れの中に位置づけることで、「モダン」と「ポストモダン／オタク」の二分法と、「オタク」が「ポストモダン」の正統的な後継者であるというアイデアを、「モダン」の人に納得させることなんだと思われる。なお、上に書いた私の立ち位置は(自分で書いていて恥ずかしいが)「ポストモダン」である。AさんとBさんとCさんがいて、Cさんが、自分がBさんと仲がいいことをAさんに見せつけるためにBさんと手をつないだが、Bさんは困惑しているという図式。

実はホイジンガのホモ・ルーデンスやカイヨワの四分類にも似たようなフレームがあったりせんだろか。どうしてもこういうゲーム論って「ゲームという娯楽の社会的地位を向上させたい」という論者の思いが投影されて、恣意的な議論になりがちだと思う。

まあ私もそういう「高次のゲーム的面白さ」を追及するのが大好きなハードコアゲーマーなので、「どうすれば高次の面白さを深められるか」についてテクニカルな議論を展開するのは大歓迎です。
なんだけど、おそらくゲームの面白さを掘り下げて考える上では、認知心理学的なベースが必要なんじゃないかって気が最近してるんですよ。無意識の部分も含めた人間の認知活動ってのがあって、その氷山の一角が水面上に現れて「ゲームの面白さはここだ」的な議論になる。けど水面下で動いている人間の精神活動を、詳細に把握とまでは言わなくてもベースとして押さえておかないと、実際にゲームを面白くするエンジニアリングとしては機能しないと思う。

例えば「ストーリーテリングが面白い」てのはなんか規定事実のように扱われてるけど、それは何故?
十数年前には「ストーリーテリングが芸術表現だから」みたいな言説が流行ったけど、私はそれ全然信じてなくて、それより「人間の脳にとってストーリーという認知フレームが親和性高いんじゃないか」みたいな認知心理学的な話を掘り下げる方が生産的じゃないかと見てる。

もちろん「認知しやすいゲームが楽しいゲーム」みたいな単純な話に落としこめるわけじゃあないと私も思います。難しいUIを征服するのが楽しいってゲームもあるし。けどその場合でも「自分の上達ぶりが認知できる」ようなメタ認知が重要だったりとか、やっぱり認知心理学に深く関わる話になると思うんですよ。いろいろ突くべきところはあると思う。そういう辺りを何ぞ考えてみんかね。

かく言う私は、先月から塊魂にはまっております。今週の関西旅行では、滋賀の田んぼや清水寺の観光客、神戸の港のクレーンなどを見るたびに、「これがーっと巻き込んだら気持ちいいよね」と妻と言い合っておりました。ちなみに妻は乙女ゲー好きです。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1906</link>
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	<item>
		<title>著作権による中間業者</title>
		<description>POLAR BEAR BLOG の Google はなぜ強力な中間業者なのか？ を読んで、本題とは少し違ったことが頭に浮かんだので、今回はそれについて書いてみる。

コンテンツの飽和により中間業者がパワーを握るという話については、2年半ほど前に コンテンツ・パッケージングの台頭 という記事の中で言及したことがある。しかし今回は、この中間業者による流通制御というアナロジーを、新聞とGoogleとの関係ではなく、他のものに適用して考えてみてはどうかというアイデアが浮かんだ。何に適用するかと言うと、著作権制度についてである。

著作権というのはコンテンツおよびコンテンツホルダを保護するための制度であると一般に信じられている。もちろん実際そのように運用されている側面もある。しかし、著作権という制度が実はコンテンツホルダではなく中間業者を保護するために使われている、という仮定から出発して世の中を眺めてみてはどうだろう。

これは決して新しい発想ではない。以前 著作権の歴史 の中で概説したように、イギリスにおける著作権制度はもともとコンテンツホルダ(書籍の執筆者)ではなく中間業者(印刷出版業者)を保護するために作られた制度である。そして同様の構図は他のコンテンツにも見てとることができる。音楽業界しかり。映画業界しかり。

この視点に立って物事を眺めてみると、著作権制度とはコンテンツの流通を独占的に制御するためのものである、ということが理解できる。映画の頒布権はまさにそのための制度であるが、他のコンテンツにおいても複製や譲渡を制限することにより実質的な流通制御が為されている。コンテンツ生成はクリエイター過剰問題があるためコモディティ化しやすいが、その場合でも中間業者としての映画会社やレコード会社は流通を強力に制御できるため利益を確保できる。

一方、P2Pファイル共有に代表される違法コピーに目を向けてみると、これがまさに既存中間業者による流通制御の独占を破壊するものだとわかる。違法コピーに対してはコンテンツクリエイターよりもレコード会社や映画会社の方が厳しい姿勢を見せているが、その理由も納得が行く。
逆にミュージシャンの中にはレコード会社の方針に反して違法コピーを許容する人もいる。これはレコード会社という中間業者を放逐したい考えなのだと解釈できる。その一方でレコード会社と対決姿勢を貫きつつも違法コピーに対しても厳しい姿勢をとる Prince のような人もいるが、これはレコード会社を駆逐した中間業者を兼任しようとしているのだと考えられるだろう。
また Google News に対しては著作権侵害で訴訟を起こした新聞社もあったが、これなどはまさしく著作権制度の正しい使用法と言えるだろう。

いずれにせよ、コンテンツ生成ではなく流通制御こそが金脈である以上、コンテンツ立国といった政策を掲げようとすればどうしても流通をコントロールするという話にならざるを得ないだろう。そこに著作権政策論議の難しさがある。ultraviolet や mara は DRM が大嫌いだが、複製のコントロール権を持ち続けることこそ中間業者がコンテンツをマネタイズする生命線であり、利用者の利便性と本質的に対立する。
それとも、著作権という方法によらずにコンテンツをマネタイズするうまい中間業者的仕組みが何か考えられるだろうか。もしそれが可能なら面白いことになるだろう。ただ、Google は広告という道で生きていくつもりのようだが、私はそれにあまり説得力を感じていない。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1900</link>
			</item>
	<item>
		<title>rel=canonical</title>
		<description>HTMLヘッダ中で rel="canonical" を指定して meta タグを記述することにより、サイト内ファイルの検索エンジンへの重複登録を防ぐことができるようになった、という話を聞いて、WordPress 用 plugin を書いてみました。

元ネタはこれ。

サイト内の重複コンテンツを防ぐ新たな手段、rel=”canonical”が登場

「SEOmoz &#124; Canonical URL Tag - The Most Important Advancement in SEO Practices Since Sitemaps」によると、Google、Yahoo!、Live(Microsoft)の3社から「ページの標準URLを定義」して「サイト内の重複コンテンツを防止する」ための新たな手法が発表されたようです。
その方法とは、ページの head タグ内に次のような link タグを記述するという簡単なもの。

この rel="canonical" によって、めんどくさい RewriteRule などを定義することなく、検索エンジンに対して望ましいURLを伝えることができます。

素晴らしい。しかしこれって、検索エンジンよりも Social Bookmark の方で是非とも対応して欲しいな。なんか RSS リーダから読んだとき URL に ?ref=rss とか言う馬鹿げたものをくっつけるせいでブックマークが分散してしまう、つうサイトがなんか世の中には結構あるんだけど、登録時に rel="canonical" で正規化してもらえると嬉しい。

そういうわけで、plugin のコードですが、こんな感じ。


< ?php
  /*
   Plugin Name: rel ...</description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1883</link>
			</item>
	<item>
		<title>マスターベーションによる前立腺癌リスク</title>
		<description>イギリスの Metro など各誌が一斉に、マスターベーションの回数が多い男性ほど前立腺癌にかかりやすい というニュースを報じています。これはイギリスでマスターベーションを含む性行為の回数と前立腺癌との相関を調べた研究成果が発表されたことによるようです。これが本当だとすると、この分野では マスターベーションの回数が多いほど前立腺癌にかかりにくい との先行研究もあったのですが、それと真っ向から対立するセンセーショナルなニュースですね。

ただし、BBC などの記事を読むと、もう少し穏やかと言うか、必ずしもはっきりした研究結果では無いようです。わかっているのは

20～30代の間の性交渉またはマスターベーションの頻度と年をとってから前立腺癌になる確率との間に相関がある
50代の性交渉またはマスターベーションの頻度は逆に前立腺癌と負の相関がある、つまりマスターベーションの多い人ほど前立腺癌にかかりにくい

ということのようです。

異性との性交渉とマスターベーションは区別されていないように見えます。おそらく性交渉かマスターベーションかを問わず、射精の頻度が重要なのだと推測されます。

また、因果関係の方向についてもわかっていません。仮に性交渉やマスターベーションをするから前立腺癌になる、という因果関係であれば、性交渉やマスターベーションを我慢することによって前立腺癌のリスクを下げられる可能性があります。ただし記事を読む限り、今回の調査を行った研究者はそうは考えていないようです。もともと前立腺癌になりやすい体質の人ほど射精への情熱が高いのではないか(男性ホルモンの量などで)、との読みのようです。その場合、マスターベーションを我慢しても体質が変わるわけではないので、前立腺癌のリスクを減らすことはできないと考えられます。

また、調査手法についても疑問の余地が無いわけでもありません。この研究では、前立腺癌にかかった人とそうでない人に対して、若い頃の性交渉やマスターベーションの回数を思い出してもらってアンケート方式で調査したとのことです。果たして記憶がどこまで正確かと言う点には疑問が残ります。ひょっとしたら、男性ホルモンの量の多い人は「俺も若い頃は凄かったんだよ」と虚勢を張りたがる、という話なのかもしれません。より明快な方法での追試が待たれます。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1876</link>
			</item>
	<item>
		<title>コンテンツ格差</title>
		<description>ある権利者側の人間の呟き2 　結局コンテンツに金払うっていうのが定着しない っつう嘆きの声がある一方で、モンティ・パイソンは公式YouTubeチャンネルを開設してDVDの売り上げが23000％増えた！ なんてやたらと景気の良い話もある。どうも格差社会が進行中なのは正社員vs派遣社員じゃないらしいですよ。しかしなんでそんな格差が生じちょるのかね?
いろんな理由はあると思うんだけど、ここでは敢えて極論を書いてみたい。金を稼げるコンテンツなんてものが元来ごく一握りしか無くて、今まではそれが水増しされてただけなのよ てのはどうだ。

いやすまん。今日はほとんど根拠無く思いつきで書いてる。やー実は結婚の準備ですげー忙しくてさー。今週は招待状の宛名書きとかドレスの試着とかに追われるのよ。ポストのクオリティが下がっても許して。

閑話休題。無料で試聴できた方がCDの売り上げが良くなる、という話は前から言われてて、そういう研究結果もわんさかある。でも実際音楽市場全体の売上が下がってるっつう現実もある。この一見矛盾する状態を綺麗に説明するにはどうしたらええんぢゃろ、と考えてみた結果、こういう仮説が頭にひらめいたわけだ。

本当に金を稼げるコンテンツは、無料で試聴などできれば売り上げが上がる
そうでないコンテンツは、無料で試聴とかできると逆に売上が下がる
今の市場に溢れているのは、後者のコンテンツが大半

いや、これが絶対正しいと言うつもりは無いよ。ただ、こう仮定するといろんな話を矛盾無く説明できるんぢゃがのう、という話。

もしこの仮説が正しいとすると、それはこういうことだと解釈できるんでないか。
もともと金を稼げるコンテンツなんてものはかなり限定されてた。ほとんどのコンテンツは、微々たるぐらいしか金を稼げない程度のものだった。ところが近代になりメディア産業が興隆するに及んで、本来金を稼げないコンテンツでもいろいろ策を講じて売りつけることで結構無理やり市場というものが作られてきた。著作権で囲い込むとか。そうやって適正水準を超えて売れる状態が人為的に作られ、多数の(本来なら金を稼げないはずの)クリエイターや権利者を養えるようになり、多数の雇用が創出された。
ところがディジタルな複製が簡単に作られてバラ撒かれる時代となり、その囲い込みが解け、市場が適正水準に戻りつつある。一部のコンテンツは逆に売上が増えるけど、全体として水増しされた雇用も元に戻るので、これから大量の失業者も出るぢゃろう。こりゃコンテンツ立国なんてのも厳しいんでないか。
とかそういう。

逆に、この解釈部分で現実に照らしておかしい部分があれば、最初に書いた仮説も信憑性が下がるという話になるかと。どうぢゃろ。とりあえずはやっぱ「実際に海賊版で被害を受けてる朕のコンテンツはダメコンテンツと申すか!」的な怒りの反論が来ますかね?

まあ確かにコンテンツの質だけが全てっつうわけでもないとは私も思います(弱気)。例えば Monty Python が 23000% も伸びた話について言えば、Monty Python というコンテンツが本当に素晴らしい質だというのももちろんだけど、1スケッチ分だけを見てもその面白さが理解でき、かつ DVD で1エピソード通して見るとスケッチ間の連携により全体の面白さがさらに際立つ、っつー頭のいい構成にも原因があろうな。まさに21世紀のYouTube 時代を見越したかのようなコンテンツ。時代に合ってる/合ってないてのはあるかもなー。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1868</link>
			</item>
	<item>
		<title>なぜ日本で起業家が増えないか</title>
		<description>日本で起業家が少ない理由には様々なものがある。大半は既に 日本に起業家が少ない理由 や 起業家を少なくしている7つの日本的主義 などで指摘されているし、ultraviolet も Twitter で 「○○業は給料が高い」と羨む人は多いが、そこで「そんなに無駄に人件費を払ってるなら俺が新規参入すれば市場競争で圧勝できる」と考えられる人が出てこない国では資本主義は育たない などと呟いている。
それらに加えて、ここでは巷の議論にあまり上らない理由を付け加えたい。それは、日本人は面倒くさがり屋 という理由である。あるいは、頑固職人は起業に向かない とも言い換えられるだろう。

日本人は勤勉だが同時に面倒くさがり屋でもある。決められたこと/やらなければならないことは勤勉にこなす。にも関わらず、面倒な手間を自分でやりたがらず、他人任せにする性質も強い。
この点において日本人と対照的なのがアメリカ人である。勤勉な日本人が他人に任せたがるのに怠惰なアメリカ人が他人任せにしようとしないタスクというものが結構ある。たとえば銀行口座からの自動引き落とし。アメリカ人は公共料金の支払いに毎月自分で小切手を切り、銀行任せにしたがらない。銀行が信用できないという事情もあるのかもしれないが、それより「コントロール権を手離したくない」という感情が強く存在しているようだ。同様に、アメリカ人はサラリーマンでも所得税を確定申告する。80～90年代のアメリカで Quicken や Microsoft Money が売れてPCが普及したのは、確定申告の必要性のためであった。

勤勉だが面倒くさがり屋という一見矛盾する性質は、頑固職人 なのだと考えると納得し易いかもしれない。頑固職人は、自分の専門テリトリー外のことを面倒くさがり、他人任せにしたがる (頑固職人の妻というのはだいたい苦労するものである)。そして多くの日本人には、程度の差はあれ、頑固職人的なメンタリティがある。この場合は、頑固職人を「オタク」と呼び変えても良いだろう。

一方、面倒くさがりでは起業家はつとまらない。あらゆることを自分でやる、あるいは最低でも自分で判断する必要がある。その最初のことが「起業する決断」だろう。頑固職人にとっては、起業しようと決断することからしてまず面倒くさいのだ。そんなことより自分の技を極めることの方が遥かに重要なのだろう。起業よりも敷居の低い決断として転職があるが、日本の大企業には転職する決断すら面倒くさがる職人技術者が大勢いる。
そう、大企業というところは、頑固職人にとって意外と居心地が良いのだ。もちろん組織の中で働く以上様々な不満もある。しかし面倒事を組織の他の人任せにできるという点は大きい。経営上の責任も上部が負ってくれるので、自分は思う存分自分の専門分野に専念できる。不満は他人のせいにして愚痴をこぼしていればいい。
頑固職人の性格を前提とすれば、これも十分合理的な判断だと思う。起業ポルノでは 技術的に優秀な人が、合理的に考えて戦略を立ててゴールを目指すと事業になるが、職人として腕を磨くことに注力すると一匹狼として、人知れず活躍しているだけという状態になる として否定的に捉えているが、頑固職人にとっては後者の方が幸福なのだろうと私は睨んでいる。

では、日本で起業を増やすにはどうしたらいいか。
日本国内で起業家を増やすという考え方自体に困難があるような気が私はしている。頑固職人は起業家になりたがらないからだ。起業家無しで起業を増やすという考え方にスイッチした方がおそらくコスト対効果が大きい。頑固職人が起業家にはならないままで起業に関れる、という仕組みを用意するのが得策でないか。例えば、起業家を国外から輸入するというのもアイデアの一つだ。起業と技術者を国際分業するのは比較優位の原理にもかなっていると私は考える。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1859</link>
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		<title>WordPress の拡張性</title>
		<description>なんか日本では WordPress は Blog に特化していて、MovableType は総合的な CMS を目指してる みたいな感じで認識されてるみたいな感じが、たとえば WPかMTかって、性能の問題だけなんだろうか？ あたりを見てるとどうもあるっぽいんですが、2005年に WordPress 1.5 で Rauru Blog を動かし始めてそろそろ4年になる私の感覚はかなり違います。
WordPress こそ、本当に blog なのかすらわからん得体の知れない超あやしいものになってしまったぜよ。MovableType とはまた別のベクトルを向いた総合 CMS を志向してる。

私の捉える WordPress の特徴を一言で言うと、野放図と言っていいほどの plugin 拡張性です。
日本ではそれがあまり理解されてないようで、どっちかつうと 初心者でもインストールしてテーマを入れれば簡単に使える blog ソフトウェア みたいに捉えられてますが、それは一面しか見てませんな。plugin の無い WordPress など、メモリの足りない Windows Vista PC のようなもの。

plugin 拡張性がワイルドなのは、MovableType と違って最初から静的生成を切り捨てて動的生成のみのサポートに絞っていたことに起因してると思われます。多くの plugin は、ユーザがアクセスしてきた時点で動き、ダイナミックなレスポンスを生成することができます。SQL のクエリを書き換えることまでできる。これが セキュリティホールの温床  になっていることは前にも書きましたけど、まあ何だってできてしまうわな。静的生成か動的生成かの違いは、単にポスト時の再構築時間の問題ではなく、 plugin によって何を機能拡張できるかに大きく関わってくるんですよ。

あと、plugin まで行かなくても、theme だけでも結構な機能追加ができます。これは ...</description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1846</link>
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		<title>Flickr 上のロマンス</title>
		<description>ultraviolet がなんとか婚約にこぎつけた 記念に、WIRED が去年のバレンタインデー特集で紹介した Wired HowTo Wiki の記事 Turn Your Flickr Crush Into Real Romance -- Flickr 上での片思い相手を射止める方法 を紹介



Step 1 : 現実的に相手を選ぼう
うーん、重要な指摘
自分の顔写真(美形)を堂々と掲載してて contact も何百人もいるような、そういう人を相手にするのは分が悪いらしく、まあそうだろうね
でも ダイヤモンドの原石を探せ ってアドバイスも、簡単とは言えなさそうな
ターゲット例として 恥ずかしがり屋の図書館司書 てのも、それはそれで、どうなの
まあ ultraviolet の場合も広い意味でそういう系の相手と言えなくもないと聞いてる

Step 2 : 写真の枚数を数えよう
自分と相手で趣味的に共通する写真の枚数を数えると、相性を占うことができる、ていう指摘
なるほどこれはそうかも
ultraviolet の場合は猫写真だったんだよね
あと、写真の枚数が少ない→ネットよりも友達と過ごす時間が長いと思われる、って指摘もあるけど、リア充ってやつ?

Step 3 : Profile も重要
相手の Profile を読むのも情報になるけど、自分の Profile をどう書くかも重要、って話
これは Profile の書き方 の話と絡むような気もするけど、写真と関係ある情報だけにとどめる もしくは 自分のアピールしたいポイントを写真絡みの書き方で書く って興味深いアドバイスが書かれてる
自分が金持ちだとアピールしたかったら、使ってるカメラとして高価な機種を挙げろ、とか
この辺 ultraviolet は全然だったけど、でも他の変なサービスでさんざん個人情報さらしてたからOKだったのかな

Step ...</description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1834</link>
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		<title>iPhone 用手袋</title>
		<description>iPhone と言えば「手袋をはめたまま使えない」ことが冬期における重大な弱点として一部で問題になっとりましたが、この問題を解決すべく Apple 本社では着々と研究を進めとった模様です。Mac Rumor によれば、2007年に右図のような特許が出願されてたらしい。

この特許では、手袋の内側と外側に導電性の素材を使う、指先に取り外し可能な蓋を付ける、指先に伸縮可能な穴を開けてタッチするときだけ指先が出るようにする、と言った複数の方法が組み合わせられている模様です。

似たような手法は実は既にサードパーティから iPhone 用手袋として商品化もされてるんですが、Apple からも正規手袋が発売されるんぢゃろか。既存のサードパーティ製手袋が特許侵害として訴えられねば良いが… </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1830</link>
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	<item>
		<title>プラセボの効きやすさ</title>
		<description>ultraviolet は先月から奥歯を治療中で、かなり根本まで激しく削っての治療だったため削ってから詰めるまで痛み止めをほとんど毎日服用していた様子ですが、先週歯を詰める際に麻酔注射を打たれたところ、打たれて数十秒後には痛みが消えて、最近の麻酔は効き目が早いと感心したそうです。ところが10分もしないうちに痛みが戻ってきて、麻酔がそんなに早く切れるわけはないから、あれはプラセボ(偽薬)だったのだろうか、と首を傾げていました。
どちらかと言うと麻酔注射の物理刺激によるゲートコントロール的な何かではないかという気もしますが、ultraviolet がプラセボの効きやすい体質ではないかという気配は私も前々から感じていました。プラセボが疑われる病気については 電磁波過敏症 や化学物質過敏症 の話もこの blog で取り上げていますが、今回はプラセボの効きやすさについての話を書いてみます。

プラセボ効果がどのような作用機序で起きるのか、そもそも本当にプラセボ効果というものが広く存在するのかについては、現在も意見が分かれています。プラセボで病気が治癒するかについては否定的な研究結果もあり、前述の電磁波過敏症や化学物質過敏症についてもまだ100%プラセボと断定されたわけではありません。
ただし鎮痛作用としてプラセボに効果があることは衆目一致するところです。プラセボによる鎮痛作用については、3年前に 偽薬とエンドルフィン というエントリを書きましたが、プラセボによってエンドルフィンやドーパミンなど脳内の神経伝達物質分泌に変化が起きることまで突き止められています。

今日紹介する話の一つ目は、昨年 Scientific American で Expect the Best? Placebos Are for You! と題して紹介されたものですが、楽観的な見方ができるとプラセボの鎮痛作用がよく効く、という研究結果です。
「この薬が効く」と楽観的に信じられればプラセボが効く、という、当たり前と言えば当たり前の話ではあります。ただし、楽観的な見方というのは薬に限らず生活の他の面でも現れる、とした点が特徴でしょうか。被験者には、プラセボが効いたかどうかを調査する一方で、ギャンブルのような報酬を伴うゲームをプレイさせて、その間の脳の活動を fMRI でスキャンしたそうです。
プラセボがよく効いた人の場合、プラセボを投与した状態での脳の様子をPETスキャンで調べたところ、側坐核のドーパミン分泌状況が高くなっていました。また、この人たちのゲーム中の脳の活動では、やはり側坐核のドーパミン分泌が高かったとのことです。
この実験を行ったミシガン大の研究者は、報酬を期待する心理が強いほどプラセボが良く効く、と結論しています。この話からは、以前 duke が書いていた 自信過剰な戦争屋 の話が思い起こされます。自信過剰な人の方が、プラセボも良く効くのかもしれません。
とは言え、PET や fMRI スキャンがどこまで信頼できるかについては 懐疑的な見方 もあります。最近では 還元主義のfMRI万能論者達の発表が質問攻めと共に叩きのめされる様などはもう たまらない というジョークもありました。この分野については今後更なる深い研究が待たれます。

二つ目に紹介するのは、今月初めに New Scientist で紹介された First 'placebo gene' discovered という記事で、プラセボの効き易さと強い相関を持つ遺伝子が発見されたというニュースです。
こちらはスウェーデンのウプサラ大での研究ですが、対人恐怖症の治療としてプラセボを使って実験を行ったものです。8週間の治療と称して偽薬を投与し、治療前と治療後での人前での上がり具合を比較しました。プラセボが良く効いて上がり方が少なくなった人とそうでない人を分けて調査したところ、脳の扁桃体の活動に差が認められ(約3%ですが)、さらに遺伝子的にはトリプトファン・ヒドロキシラーゼ-2と呼ばれる酵素をコードしている遺伝子に差がありました。この遺伝子はセロトニンの合成に関わるもので、いくつかの型があるのですが、プラセボがよく効いた人にはG型と呼ばれる変異型が多かったそうです。よく効いた10人のうち8人はGGホモで、一方よく効かなかった人はG型を一つも持っていなかったとの結果です。
ウプサラ大の Furmark 准教授はこの結果を元に、プラセボの効き易さに関わる遺伝子を世界で初めて発見した、と主張しています。とは言っても、セロトニンはプラセボに限定されず安心感に大きく関わる神経伝達物質であり、G型の遺伝子はプラセボと関係なく単にセロトニンの分泌量が変動しやすくなるというだけのことかもしれません。扁桃体の活動の差が 3%というのも、これが大きいのか小さいのか何とも判断が難しいところです。

このように結果が妥当かについては疑問もありますが、プラセボについてこのように様々な角度から研究が進められているのは良いことかと思います。電磁波過敏症や化学物質過敏症についても、同じような形での研究が行われるべきかもしれません。例えば、何も当てない場合、電磁波のシャム(プラセボ)を当てた場合、本物の電磁波を当てた場合で、脳の状態を比較する、といった研究など、良いのではないでしょうか。それはプラセボだ、と言って話を終わらせるのではなく、今や どんなプラセボか を問うことができる時代になりつつあるのですから。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1806</link>
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	<item>
		<title>プログラマの物の考え方</title>
		<description>Boing Boing で見つけた興味深い記事。プログラマと一般人は思考パターンが違うと言われることがよくありますが、それについて調査した研究です。結論を先に書くと、 考え方さえ一貫していればそこから意味不明な結論が出ても良しとする ような性質が重要、という研究。

この研究はイギリスのミドルセックス大学の Saeed Dehnadi / Richard Bornat という二人の計算機科学教官によって行われたものなんですが、大学の計算機科学の受講生に学科一日目にテストを行って、このテストってのがまだプログラミングについて何も知らない受講生にはわけわからん内容のテストなんですが、その結果をテストの出来ではなく、テスト答案から読み取れる受講者の思考パターンによって、三つに分けたんだそうな。テストには受講者を惑わせる仕掛けがあって、例えば選択肢から選ぶ形式のテストのときに実は正解は選択肢の中に無くて「その他」を選ばなきゃいけない(雄山の罠)とか。そのときに

わけわからんなりに一貫した思考パターンで回答したグループ
思考パターンの一貫性よりも回答が意味あるもののように見えることを優先したグループ
わけわからんから回答を拒否したグループ

そしてこの分類結果を後の受講成績と照らし合わせたところ、1のグループが一番成績が良かった、という話です。
この結果から Dehnadi と Bornat は最初に書いたような結論を導いてます。考え方さえ正しければそこから常識外れな結果が出てもその方が正しいと考えるような思考様式。それがプログラマにとって必要な適性だ、とゆうのですね。なるほど分かる気がする。

ただし、Boing Boing についたコメントによれば、違う結果の出た研究もあるそおです。トロント大の研究チーム がこの研究を追試したところ、うまく再現できなかった。1のグループの平均成績がそんなに良くなかったんだそおな。さらに詳しく分析してみると、どうも1 のグループは成績の良い人と成績の悪い人に二極分化してたとのこと。それもそれで結構興味深い。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1797</link>
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		<title>化学物質過敏症</title>
		<description>NATROMの日記の 化学物質過敏症の女性に障害年金支給 を読んでて思い出したんですが、化学物質過敏症については、実は名前に反して化学物質そのものよりも臭いの方が原因であるっつう調査結果が複数出てる模様です。英語版Wikipediaから引用してみませう。

Multiple chemical sensitivity

When MCS sufferers have been tested in double-blinded placebo controlled trials, exposure to chemicals has not reproducibly elicited symptoms. In a 1993 study of MCS sufferers, test subjects could not discriminate between their chemical triggers and clean air when an olfactory masker was introduced that eliminated ...</description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1789</link>
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	<item>
		<title>幸福のUカーブ</title>
		<description>極東ブログで フランス人は65歳から70歳が人生で一番幸せ って話が出てるのを見て、今年初めぐらいに読んだんだけどほたってた Scientific American の記事を思い出しました。Life's U-Shaped Path of Happiness て記事なんですが、洋の東西を問わず、人間の幸福感てのは40代が最低で、その後は上昇に転じるんだそおです。

60 Second Science コーナーの記事なんで参考文献へのリンクが無くて裏を取るのが面倒っちかったんでほたってあったんですが、Social Science and Medicine っつうジャーナルに掲載された研究が元ネタのようで、アゼルバイジャンからジンバブエまで74カ国に渡って各国の人々を調査したらしい。んで、どこの国でも同じ傾向が見られたんだそうな。
これは、経済的水準とか、結婚生活がうまくいってるかどうかとか、そういうことに関係なく、富める人も貧しい人も、モテも非モテも、40代が最低でそれを過ぎると幸福感が上がる点では共通してるとのこと。

研究者が推測するこの幸福感上昇の原因についてこの記事では短く触れられてるんですが、それによると、人間40代を過ぎてくると現実を受け入れるようになるためじゃないか、だそおです。非現実的な期待を抱かなくなる。自分の得たもので満足できるようになる。なるほどのう。いろいろ示唆に富んだ話ではある。

あと マクラケン直子 さんから Twitter で教えてもらったんですが、育児が一段落すると幸福感が出てくるってのもあるらしいですな。BBCの記事 とか。この辺は各論に入るけど、そういういろんなケースの各論も統計的に合わさって、40代の幸福感が最低、て話に寄与してるのかもしんない。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1784</link>
			</item>
	<item>
		<title>葬儀としての死刑</title>
		<description>5月の秋葉原での通り魔事件の後、犠牲者の遺族について「突然の不幸で割り切れないだろう」との感想をあちこちで目にした。その通りかと思う。
家族や大切な人の死を感情として受け入れるには、時間と手間がかかる。人間の感情メカニズムは、目の前の事実をありのまま受け入れられるほど便利にはできていない。
人の死に際して行われる一連の葬儀儀式は、死を感情として受け入れるためのシステムでもある。通夜、葬式、初七日、四十九日、初盆といったステップを順に踏んでいくことで、少しずつ、大切な人の死と言う事実を感情的にも受け入れていくのだ。

しかし受け入れられなさ度合いにはケースごとの大小がある。例えば、末期癌で余命半年と宣告されてその通り半年後に死んだのであれば、死ぬまでの半年の間に徐々に受け入れる余裕がある(むしろ癌宣告時の方がショックとして大きい)。逆に、誰も死を予想していなかったのに突然不慮の事故で、というケースでは、感情的に受け入れるハードルが高い。
そして最も受け入れがたいのが、殺人の被害者となったケースだろう。そのような場合には、死を感情的に受け入れるために、通常の葬儀だけでは足りず、追加の何かが必要とされる。

この「犠牲者の死を感情的に受け入れるための儀式」として、「殺人犯を死刑にする」ことが必要とされているのではないか、という点に思い当たったので、今回それについて書いてみたい。



殺人事件犠牲者の遺族が殺人犯の死刑を望む感情については、従来「怒り」という形で理解することが多かったように思う。それに対して死刑廃止論者からは「殺人犯を死刑にしても犠牲者は戻ってこない」などの形で「犯人を赦す」的方向の説得が試みられてはきたが、うまくいっているとは言いがたい。
遺族感情に「怒り」もあることは間違い無いが、「犠牲者の死を感情として受け入れる」という観点で見ることも必要かと思う。死を感情として受け入れられていない状態では、赦す赦さない以前の問題である。犠牲者遺族の多くは、受け入れるための儀式として何かを必要としている。そして日本では、加害者を死刑とすることがそのための儀式として使われている。
殺人犯を死刑にしても犠牲者は戻ってこないが、「犠牲者が戻ってこない」という事実を遺族が受け入れるためには死刑が必要、と考えてよいかと思う。加害者を死刑にして初めて、犠牲者が戻ってこないことを感情的にも受け入れることができ、そうしてようやく「加害者を赦そうか」という状態になれる。私はそのように推測している。

では、死刑廃止派が大勢を占めている西欧諸国では、この点はどう解決されているのだろうか。

「メメント・モリ」という言葉が鍵になると私は考えている。
Memento Mori とはラテン語で「死について考えろ」を意味するフレーズである。共和制ローマの凱旋式で、凱旋将軍に対して奴隷が耳元でこのフレーズを呟き続けていたのが発祥とされる。凱旋将軍が民衆の歓声を浴びて増長し過ぎると神の怒りを買うと信じられていたため、「所詮人間であることを忘れるな」と戒める意味でこのフレーズを呟いていたのだ。Mori つまり「死すべき定めにある者」とは人間のことを指した。キリスト教会支配下の中世ヨーロッパではこれが転じて、「現世を生きることよりも死後の復活で神の国に入ることの方が重要」という教義のために使われ、「常に死を意識して生きよ」という形で使われた。絵画で骸骨など死をイメージするモチーフが頻繁に使われたのもそのためである。21世紀の今日、西欧諸国でのキリスト教の影響力は遥かに低下しているが、それでも「死を意識して日々生きる」という感覚は強く残っている。

対して日本人は「日々の中で死を意識する」という感覚がとても弱い。むしろ死について考えることを「縁起でもない」として遠ざけたがる。IT+PLUSの  日本のゲームはなぜ「銀髪」の敵キャラが多いのか では「死体を隠す」という話が出ており、養老孟司は例によって身体感などを持ち出して何やら言っているようだが、それは本質から外れた議論で、重要なのはメメント・モリ意識の差の方だろう。また、癌の本人告知に耐えられるかどうかも、この意識の有無が大きく効いてくる。
そのように死を忘れて日々を生きていると、大切な人が不慮の死を遂げた際に「感情的に受け入れられない」と強く感じられるのも仕方ないことだろう。日本人は西欧諸国よりも、受け入れられなさ度合いが高く、より「激しい」儀式を必要とする。
殺人の直接の被害者でない人が死刑廃止議論の際において死刑存続側に回るのも、「もし自分の大切な人が死んだら」ということを想像することに感情的な抵抗があるためだろうと私は見ている。日本人はそういうケースについて冷静に考えることができない。「殺人犯を死刑に!」という怒りの感情に置き換えることによって、「自分の大切な人の死」に真正面から向き合って考えることから逃れようとする。

あるいはこう言い換えることもできるだろう。西欧文化圏では、死について日々考えておくことによって、不慮の死の悲しみに理性的に備える。対して日本人は、殺人犯を死刑にという怒りを向けることによって、不慮の死による悲しみを感情的に上書きする。これは ultraviolet の指摘する 情の文化 ともよく合致する話である。
しかし、情の文化は日本以外の国で通用しない。外国人、特に西欧文化圏の人にとっては、死刑とは理性の欠如と見えてしまう。日本以外に死刑存続で強く非難されているのがアメリカおよび中国という「意の文化」の大国であることも状況が良くない。西欧人にとって死刑とは「圧政的な国家が市民を弾圧する意思」の象徴となっている。市民自身が情として死刑を必要としていることは理解されにくい。西欧人から見れば、そのように情を前面に出して行動すること自体、「市民」にあるまじき振る舞いだからだ。この文化的なギャップを埋めることは簡単でないだろう。

死刑存続・廃止のいずれを支持するかはさておき、死について日常的に考えておくことは21世紀を生きる日本人にとっても有用だろうと私は見ている。 dankogai 氏は 犠牲者遺族への補償を と書いていたが、死んでからのケアだけでなく、死ぬ前からそれに備えておくことも重要かと思う。殺人事件によって死ぬ人よりも、それ以外の理由で不慮の死を遂げる人の方が、実際には圧倒的に多い。殺人事件なら犯人を死刑にして、医療事故なら医師を訴えることで感情的な受容の助けにできるかもしれないが、そういう感情のぶつけ先の無い死に方も多いのだ。
あなたの大切な人もいつかは死ぬ。それは、あなたが予想するよりずっと早いかもしれない。
[asa　book]412003576X[/asa] </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1777</link>
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	<item>
		<title>ダウンロード違法化に至る心理</title>
		<description>この件について コンテンツ自体に未来が無い という私の考えはいささかの揺るぎも無く、そのため著作権違反コンテンツのダウンロードが違法化されても私は何ら困らない。これは実質的に利害関係が無い立場と見なせるかと思う。そのような中立的な立場から、今回のこの ダウンロード違法化 について、考えたことを述べてみたい。

小寺信良氏は ASCII.jp に掲載された ダウンロード違法化はついに何かの引き金を引いた との記事の中で、「権利者が狙うように、またみんなが一生懸命DVDやCDを買うようになるなどというのは、幻想だ」と述べている。日本人のうちこの問題に関心を持っている人の圧倒的大多数も同じことを考えているだろう。私もこの文章のうち、「権利者が狙うように」を除いた後半部分には同意する
なぜ最初の節を除いたかと言うと、権利者がそのような幻想を抱いているとは私には思えないためだ。ダウンロード違法化によってコンテンツ売上や著作権使用料が伸びるといった甘い考えは誰も考えていないだろう。いくら権利者と言えどそこまで馬鹿ではない。

ではなぜ権利者はダウンロード違法化を望んだのか。その心理メカニズムを私は以下のように推測している。




現状でコンテンツ売上が減っているという認識がまずある
売上減少について自分達権利者が一方的に被害者であるという認識もある
ダウンロード違法化によっても売上が増加に転じるとは考えていない
しかしこのままでは自分達が一方的に被害を受け続けるだけであり、何もしなければ座して死を待つだけ、何か手を打たなければとの焦りもある
そこから、自分達だけ一方的に被害を受けるのは許せない、ならばいっそ利用者も共連れに、との意識に至る
ダウンロード違法化によって利用者側の利便性が低下することも認識しているが、現状で自分達が一方的に被害を受けているという意識から、「自分達が100損をするところ90の損で済むなら(相対的に10得するなら)、その代償として利用者が100損しようと、むしろその方が公平に近づく」とでも言うような考え方を持っている
実際にダウンロード違法化が施行され、やはりコンテンツ売上が減少し続けた後に権利者が出すコメントは、「違法化しなければもっと激しく売上が減っていた、違法化したからこの程度で済んだのだ」


これはある意味テロリストの思想と似ている。自分達が虐げられた弱者であるという被害者意識があり、それを埋め合わせるためなら恵まれたものが犠牲になっても当然、国全体としてマイナスになっても当然、という考え方である。権利者は自分のことを、強欲な金持ちではなく、かわいそうな弱者だと認識しているのだ。このように私は分析している。こう考えると、私的録音録画小委員会で権利者側がとんちんかんな発言を繰り返す理由も説明できる。

もちろん利用者は利用者で、自分達こそが権利者の横暴に虐げられている被害者だ、との認識を持っている。しかし一旦「自分達こそ被害者」という意識に凝り固まってしまった権利者は、相手も被害者であることに思いが至らなくなる。被害者は「お前は加害者でもある」と言われると逆上するものである。
このような被害者意識によって思考が硬直化して対立が悪化する現象は、なにも著作権問題に限ったことではなく、日本ではおよそ社会のあらゆるところで見られる話である。政治家も官僚もマスコミも、教師も生徒も親も、医師も患者も、経営者も労組も派遣社員も、男性も女性も、そしてもちろんネット住人も、皆が「自分達こそ被害者」と考えている。
ただ、この権利者の抱える被害者意識は、その中でもかなり豪快な部類に属するものかと思う。被害者意識というものがいかに醜いかを見る絶好のサンプルでもあり、以って他山の石とすることで活用できるのではないかと期待している。

さて、上記のような私の推測が当たっていた場合、利用者側から権利者側を説得して歩み寄り点を探すには、どうしたらよいだろうか。
「ダウンロード違法化によってコンテンツ売上はむしろ下がる」と当たり前のことを力説したところで、それでは説得にならないだろう。そんなことは権利者側も内心では重々承知しているはずだ。かえって態度を硬化させると予想される。

根本的な原因は権利者側の抱える被害者意識であり、これを解消することが必要になるだろう。これは論理と言うより感情の問題なので非常に困難なのだが、可能性が全く無いわけでもない。
最も手っ取り早いのは、共通の敵を用意することである。権利者と利用者の両方に同じ被害をもたらすような共通の敵が現れれば、「同じ被害者同士」として連帯感が生まれ、協力し合うことも可能となる。
残念ながら、現状の著作権を巡る対立の構図に対しては、そうした共通の敵を私では思いつけない。また、仮に思いつけたとしても、その共通の敵のもたらす被害によって現状よりさらに悲惨な状況が発生する恐れもある。なかなかに難しい。

誰か、良いアイデアが無いだろうか。 </description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1767</link>
			</item>
	<item>
		<title>マナーって何だろう</title>
		<description>今日たまたま「マナー」を Wikipedia で引いてみたんだけど、そしたら日本語版と英語版で書いてあることが全然違うのな。なんとも興味深いと思った。

こっちが日本語版。

マナー (Wikipedia日本語版)

マナーの多くの様式は、四角四面に解釈して適用するマニュアルではなく、人間が気持ちよく生活していくための知恵である。
(中略)
「他者を気遣う」という気持ちを所作として形式化し、わかりやすくしたものが形式としてのマナーである。


一方こっちが英語版。

Manners (Wikipedia英語版)

In sociology, manners are the unenforced standards of conduct which show the actor to be cultured, polite, and refined. They are like laws in that they codify or set a standard for human behavior, but they are unlike laws in that there is no formal system ...</description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1752</link>
			</item>
	<item>
		<title>iTunes Store の Gift Certificate</title>
		<description>私と mara は、iTunes Store の US 店にアカウントを作って楽曲を買ってます。どーやって登録したかは3年前のことなのですっかり忘れてしまった。まあアメリカの住所で登録して、ドル建ての Gift Certificate を買ってきて redeem して楽曲の購入に充ててるわけです。日本店と違って山のように楽曲が用意されてるので素晴らしい。Rafal Blechacz から Ginger Does'em All まで置いてあるし。

この方法の欠点は、Gift Certificate が高くつくこと。Gift Certificate は日本国内でも売ってる店がいくつかあって、私は ベースオントップ とかで買ってたんですが、だいたい$10で1500～1600円ぐらいするんだよね。$0.99の曲を買うと、iTunes Store Japan の1曲150円よりも高くつくことに。

今日検索してて、$100 の Gift Certificate を $89 という破格の値段で売ってる オンラインショップ を発見しました。今の相場だと$1=106円ぐらいだから、$89=9400円ぐらい。1曲あたり94円という計算になって、お得なのぢゃ。

でもやっぱ怪しいと思うよね。なんでそんなに安く売れるんじゃいと。しかもサイトが blogspot.com 上にあるってどうよ。そりゃまあ最近は WordPress 使ってショッピングサイト構築する例も最近増えてきてるけど、blogspot て…

なので、いきなり $100 を買うのは怖いので、まずは $40 の方を購入してみました。$40分の Gift Certificate が $38 で買えます。まあ4000円弱なら失敗してもいいかあと。

支払いは PayPal ...</description>
		<link>http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1747</link>
			</item>
</channel>
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