一年半以上前に 著作権の歴史 と題して、イギリスでの著作権制度がどのような過程を経て成立したかを説明した。いささか時間は経ってしまったが、今回はその続きとして、アメリカで著作権制度がどのような生い立ちをたどったかについて、私の考えを書いてみる。
今さらこのようなエントリを起こす理由だが、巷で話題になっている Google Book Search について、また別の角度から眺める視点として有益ではないかと考えるためだ。
17世紀以降の北米植民地では、イギリスのような出版者ギルドこそ無かったものの、出版業界が発達してくる。その多くはイギリス人著作物の海賊版であり、著作者の保護というものは全く考えられていなかった。そうした中で、書籍出版による利益が出版者に貪られ、アメリカ人著作者には雀の涙のような原稿料しか入らない、という状況が大きくなっていき、やがて植民地政府に対し「著作者の保護」を訴える動きが出てくる。
このような経緯の結果、アメリカでは「圧制者の搾取に対して民衆が自分の財産権を主張する」という視点から著作権が捉えられるようになった。著作権とそこから得られるはずの利益を自然な財産権と見なす考え方である。そしてアメリカ独立宣言からさして間を置かない1790年、まだ独立戦争も終わっていないうちに、最初の著作権法 が連邦法として制定された。多くの部分でイギリスのアン法をそのまま踏襲しているが、イギリス法的な産業振興策の側面よりも自然権保護の観点を強く持つと考えられている。.
アメリカ人がこのような「自然権としての財産権」との考え方にいたった背景には、独立戦争のゴタゴタの中にあってドナルドソン対ベケット裁判などの情報がよく伝わらなかったという原因も指摘されているが、もう一つ、「早い者勝ちでフロンティアを切り取って行く」というアメリカ開拓の歴史が大きな役割を果たしたと私は考えている。島国イギリスはゼロサム性が強く、誰かが土地を独占すれば他の人が追い出されるのが当然だった(エンクロージャなど)。しかし開拓初期のアメリカには無限とも思える無人の(つまり先住民だけが住んでいる)土地があり、1人の開拓者が一定範囲の土地を独占しても他にいくらでも土地がある(つまり先住民から収奪すればいい)という状況だった。やがて高利益率の土地は囲いつくされたが、このアメリカ人のメンタリティは変わっておらず、土地以外に早い者勝ちで独占できるようなフロンティアが必要とされている。Second Life のようなサービスが生まれれば皆が飛びつくわけである。以前書いたアメリカ経済にはフロンティアが必要という話と絡む。
アメリカ人は、著作権もフロンティアの一種だと見なしている。想像力さえあればいくらでも新しいものを生み出すことが可能で、それを早い者勝ちで切り取って行く、という考え方が、アメリカ人のメンタリティと良くマッチするのだ。
さて、近年の Google Book Search の動きだが、これを「著作権制度への挑戦」と見る向きが巷では多い。確かに既存の著作権制度と正面からぶつかる動きであることは確かである。しかし同時に私は、上述した「早いもの勝ちでフロンティアを切り取っていく」という考え方、アメリカ的著作権制度の源流に流れるいかにもアメリカ的思想を、この Google Book Search こそが実にストレートな形で継承していると考える。
このため、Google と著作権者との対立も、確かに正面からぶつかってはいるが、底流では両者に共通したものがあり、それほど深刻な対立にはならないだろうと私は踏んでいる。結局のところ「どちらが強いか」という西部開拓時代的な部分で決着されることになり、現時点ではそれが和解条件という形でひとまず落ち着いている。
一方、アメリカ以外の国ではいささか事情が異なる。特に、ゼロサム性の高い島国であるにも関わらず著作権の扱いについてはアメリカ式の財産権的考え方の影響を強く受けている国、不平等条約撤廃のために迂闊にベルヌ条約に加盟してしまった上にプラーゲ対策で作られた著作権仲介業者がそのまま既得権益を拡大するという泥縄式に制度が出来上がってしまった国、つまり日本のことなのだが、そこでは全く異なる事情が存在する。
日本には「早い者勝ちでフロンティアを切り取って行く」という動的な思想は無い。財産権としての著作権は静的なものと受け止められており、静的な社会秩序の中に位置づけられている。Google Book Search のような動きは、新しいフロンティアを切り取るものとは認識されず、静的な秩序を乱すものだと捉えられ、被害者意識に凝り固まった怨嗟の声 が上がることになる。干場弓子氏の書いた記事などは、その心理をうまく言い当てている。
「グーグル和解問題」、どこが問題か? ●干場 (ディスカヴァー社長室ブログ)
そうした「実」よりは、そもそも、著作権者に無断でスキャンしてコンテンツを自分の所に事実上、独占的に集積し、そして、売る、ということに、たとえそれが、知の共有という高邁な理想から始まったものだとしても、違和感を感じる、というのがみなの思いじゃないだろうか? 資本とインフラに物言わせて、やったモン勝ち、早いモン勝ちみたいで。
全くその通りなのだが、アメリカ人の考え方に基づけば、もともと書籍出版を含めた創造行為全てが「早いモン勝ち」の上に成り立っているのだ。その点に大きなすれ違いがある。この部分の考え方の違いはかなり深いため、摺り合わせは相当に困難だろうと私は見ている。

