5月の秋葉原での通り魔事件の後、犠牲者の遺族について「突然の不幸で割り切れないだろう」との感想をあちこちで目にした。その通りかと思う。
家族や大切な人の死を感情として受け入れるには、時間と手間がかかる。人間の感情メカニズムは、目の前の事実をありのまま受け入れられるほど便利にはできていない。
人の死に際して行われる一連の葬儀儀式は、死を感情として受け入れるためのシステムでもある。通夜、葬式、初七日、四十九日、初盆といったステップを順に踏んでいくことで、少しずつ、大切な人の死と言う事実を感情的にも受け入れていくのだ。
しかし受け入れられなさ度合いにはケースごとの大小がある。例えば、末期癌で余命半年と宣告されてその通り半年後に死んだのであれば、死ぬまでの半年の間に徐々に受け入れる余裕がある(むしろ癌宣告時の方がショックとして大きい)。逆に、誰も死を予想していなかったのに突然不慮の事故で、というケースでは、感情的に受け入れるハードルが高い。
そして最も受け入れがたいのが、殺人の被害者となったケースだろう。そのような場合には、死を感情的に受け入れるために、通常の葬儀だけでは足りず、追加の何かが必要とされる。
この「犠牲者の死を感情的に受け入れるための儀式」として、「殺人犯を死刑にする」ことが必要とされているのではないか、という点に思い当たったので、今回それについて書いてみたい。
殺人事件犠牲者の遺族が殺人犯の死刑を望む感情については、従来「怒り」という形で理解することが多かったように思う。それに対して死刑廃止論者からは「殺人犯を死刑にしても犠牲者は戻ってこない」などの形で「犯人を赦す」的方向の説得が試みられてはきたが、うまくいっているとは言いがたい。
遺族感情に「怒り」もあることは間違い無いが、「犠牲者の死を感情として受け入れる」という観点で見ることも必要かと思う。死を感情として受け入れられていない状態では、赦す赦さない以前の問題である。犠牲者遺族の多くは、受け入れるための儀式として何かを必要としている。そして日本では、加害者を死刑とすることがそのための儀式として使われている。
殺人犯を死刑にしても犠牲者は戻ってこないが、「犠牲者が戻ってこない」という事実を遺族が受け入れるためには死刑が必要、と考えてよいかと思う。加害者を死刑にして初めて、犠牲者が戻ってこないことを感情的にも受け入れることができ、そうしてようやく「加害者を赦そうか」という状態になれる。私はそのように推測している。
では、死刑廃止派が大勢を占めている西欧諸国では、この点はどう解決されているのだろうか。
「メメント・モリ」という言葉が鍵になると私は考えている。
Memento Mori とはラテン語で「死について考えろ」を意味するフレーズである。共和制ローマの凱旋式で、凱旋将軍に対して奴隷が耳元でこのフレーズを呟き続けていたのが発祥とされる。凱旋将軍が民衆の歓声を浴びて増長し過ぎると神の怒りを買うと信じられていたため、「所詮人間であることを忘れるな」と戒める意味でこのフレーズを呟いていたのだ。Mori つまり「死すべき定めにある者」とは人間のことを指した。キリスト教会支配下の中世ヨーロッパではこれが転じて、「現世を生きることよりも死後の復活で神の国に入ることの方が重要」という教義のために使われ、「常に死を意識して生きよ」という形で使われた。絵画で骸骨など死をイメージするモチーフが頻繁に使われたのもそのためである。21世紀の今日、西欧諸国でのキリスト教の影響力は遥かに低下しているが、それでも「死を意識して日々生きる」という感覚は強く残っている。
対して日本人は「日々の中で死を意識する」という感覚がとても弱い。むしろ死について考えることを「縁起でもない」として遠ざけたがる。IT+PLUSの 日本のゲームはなぜ「銀髪」の敵キャラが多いのか では「死体を隠す」という話が出ており、養老孟司は例によって身体感などを持ち出して何やら言っているようだが、それは本質から外れた議論で、重要なのはメメント・モリ意識の差の方だろう。また、癌の本人告知に耐えられるかどうかも、この意識の有無が大きく効いてくる。
そのように死を忘れて日々を生きていると、大切な人が不慮の死を遂げた際に「感情的に受け入れられない」と強く感じられるのも仕方ないことだろう。日本人は西欧諸国よりも、受け入れられなさ度合いが高く、より「激しい」儀式を必要とする。
殺人の直接の被害者でない人が死刑廃止議論の際において死刑存続側に回るのも、「もし自分の大切な人が死んだら」ということを想像することに感情的な抵抗があるためだろうと私は見ている。日本人はそういうケースについて冷静に考えることができない。「殺人犯を死刑に!」という怒りの感情に置き換えることによって、「自分の大切な人の死」に真正面から向き合って考えることから逃れようとする。
あるいはこう言い換えることもできるだろう。西欧文化圏では、死について日々考えておくことによって、不慮の死の悲しみに理性的に備える。対して日本人は、殺人犯を死刑にという怒りを向けることによって、不慮の死による悲しみを感情的に上書きする。これは ultraviolet の指摘する 情の文化 ともよく合致する話である。
しかし、情の文化は日本以外の国で通用しない。外国人、特に西欧文化圏の人にとっては、死刑とは理性の欠如と見えてしまう。日本以外に死刑存続で強く非難されているのがアメリカおよび中国という「意の文化」の大国であることも状況が良くない。西欧人にとって死刑とは「圧政的な国家が市民を弾圧する意思」の象徴となっている。市民自身が情として死刑を必要としていることは理解されにくい。西欧人から見れば、そのように情を前面に出して行動すること自体、「市民」にあるまじき振る舞いだからだ。この文化的なギャップを埋めることは簡単でないだろう。
死刑存続・廃止のいずれを支持するかはさておき、死について日常的に考えておくことは21世紀を生きる日本人にとっても有用だろうと私は見ている。 dankogai 氏は 犠牲者遺族への補償を と書いていたが、死んでからのケアだけでなく、死ぬ前からそれに備えておくことも重要かと思う。殺人事件によって死ぬ人よりも、それ以外の理由で不慮の死を遂げる人の方が、実際には圧倒的に多い。殺人事件なら犯人を死刑にして、医療事故なら医師を訴えることで感情的な受容の助けにできるかもしれないが、そういう感情のぶつけ先の無い死に方も多いのだ。
あなたの大切な人もいつかは死ぬ。それは、あなたが予想するよりずっと早いかもしれない。
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December 5th, 2008 at 6:08
日本人の死生観に問題があるというのはその通りだと思います。医療従事者が医療裁判を回避する最も有効な手段は、正しい医療を施すことではなくマコトや受容的な態度を示すことだったりもしますし。
お爺ちゃんやお婆ちゃんが自宅で往生する、というのが非常に困難な現状では、身近に死を経験するにはペットを飼ったりするしかないですかね。
August 8th, 2009 at 7:32
民主党は死刑を廃止して仮釈放のない終身刑にすることを主張している。
民主党は被害者の遺族も納めている税金によって、殺人者に終生、食事と医療が保証される制度が作りたいのである。
殺人に対する抑止効果が無くなる人も出てくるかも知れない。