すなふきんの雑感日記で下のような疑問が呈されているのを見かけた。
実際に役に立つマニュアルは軽視し糞の役にも立たない形式的なものは重んじる日本人。まるであべこべだ。これもある意味くだらない精神論の押し売りに過ぎないんじゃないか。
これを読んで思い出したのだが、なぜ日本人が形式的なものを重視するかについて本当に知りたいのであれば良い本がある。NHKブックスの国際感覚と日本人 という本だ。20年近く昔に出版された本であり、絶版になって久しいのだが、幸いなことに現在でも amazon.co.jp で古本が何冊か入手可能なようだ。もともと大学院生時代の ultraviolet が Tokyo Citybook を執筆した際に日本人の精神性をアメリカ人に説明するための資料として買って来た本なのだが、途中で修論・就職により執筆を断念したためほとんど使われなかったという一冊である (彼が途中まで書いた原稿は Brian S. Perry に受け継がれて完成された/物議を醸した被差別部落関連の記述はPerryの手によるものである)。
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この本での金山宣夫の説明によると、日本社会には二つの大きな特徴がある。一つは、日本の(擬似)近代社会を支える精神的要素(状況宗教)としてのマコト主義。もう一つは社会的な規範・文化的基盤としてのシツケ共同体という考え方である。簡単にまとめてしまうと、やや乱暴だが次のようになるだろうか。
- 個人レベルの日本人は、「マコト(誠意)を持って頑張ればうまくいく」という、ほとんど宗教的と言っていいような思い込みを持っている。また、持っていなければならない。
- 一方社会レベルの日本人は、各自の持っているマコトを共同体の他の構成員に見える形で示さなければならない。その見せ方がシツケとして叩き込まれる。箸の持ち方から会社での付き合い残業まで、シツケには様々なものがある。
この考え方の上に、ルース・ベネディクトの 菊と刀 を「分析が甘い」と批判するなど、なかなか愉快な本である。
さて、日本人が形式的なものを重んじることについては批判が絶えない。シツケられた通りに振舞えばマコトを示せたことになるため、カタチだけで中身の無い振る舞いになるという本末転倒なことも往々にしてある。しかし、実用上は役に立たない形式であっても、形式を実践することが他人にマコトをカタチとして見せるための唯一の方法である。そして皆がカタチを示すことでマコト信仰が維持されている。日本人の勤勉さ・生真面目さがマコト信仰によって支えられていることを考えると、この社会をこの形で維持していくためにはカタチ重視が必要不可欠だと言える。
マコトを示すための最も崇高な行為は自己犠牲である。合理的に物事を進めてコストを削減するよりも、非合理的な手続きを踏んで犠牲を払うことの方が、自分のマコトをより高くアピールできる。これについては以前 なぜ理不尽な規則が生き残るのか でも触れたことがある。役に立つマニュアルの実践では、合理的で役に立つがゆえに、マコトをアピールする力が弱いのだ。
この日本文化の特質が良い方向に働くか、それとも悪い方向に働くかについては、判断が難しい。この本の行間からは、この特質を日本の長所として捉え、国際的に通用するものとして世界にアピールしていきたい、そのためにまずは日本人自身が自分のことを知ろう、との筆者の思惑が汲み取れる。ちなみにこの本が書かれた1989年は、東証の日経平均株価が38,915円を記録するなど、バブル経済の絶頂期であった。日経平均で判断を左右させるというわけでもないが、2008年の現在ではまた別の判断もあろうかと思う。
いずれにせよ、マコトとシツケの二つは車輪の両輪であり、片方が欠けてはもう片方もうまく機能しない。
もしシツケが崩壊すれば、上述のようにマコト信仰を維持することができなくなる。
逆に、もしマコト信仰が崩壊すれば、例えば「誠意を持って頑張っても所詮ダメなものはダメだ」と皆が思うようになれば、カタチ・シツケも顧みられなくなるだろう。
近年の日本を見ていると、どちらが先に崩壊したのかはわからないが、結果的に両方が崩壊してお互いの崩壊を加速させるメルトダウン状態にあるのではないか、という気もしてくる。例えば最近騒がれている格差論は、マコト信仰の崩壊を如実に映し出している。
ただし、この二つは日本人の心の中で完全に崩壊したわけではなく、マコトとシツケがうまく機能していた古き良き時代への幻想と郷愁は根強く残っているようだ。「誠意を持って頑張る人が報われていた時代」「親が子供をきちんと躾けていた時代」などへの郷愁である。感情的にはわからない話でもない。
では日本の今後はどうなるのだろうか。
時計の針を巻き戻してマコト主義とシツケ共同体を復活させようという考え方も一つある。それが可能かどうかは何ともわからない。第二次大戦後の復興期にマコト主義とシツケ共同体が大きく役立ったことは間違いないが、バブル崩壊後の時代でもそれが通用する保証は無い。時代に合わなかったからこそ崩壊したのだ、との指摘もある。
ではマコトとシツケを放棄して新しい日本文化に望みを見出すべきだろうか。その場合、これまでの日本人の長所とされた勤勉さ・生真面目さも同時に無くなると考えた方が良い。例えば 債券・株・為替 中年金融マン ぐっちーさんの金持ちまっしぐら では「正確さ+お金に惑わされない正直さ」が日本の力の源泉だとされているが、当然それも失われる。形式の叩き込みはやめつつ、しかし勤勉さと生真面目さは残したい、と望むのは、あまりに虫が良すぎるというものだろう。
それとも両者の中庸を目指すべきだろうか。それも危険を孕んだ賭けである。うまく両方の長所を併せられればめでたい。しかし歴史は、両方の短所を併せもってしまったという例で溢れている。帯に短し襷に長し、とは、昔の人も良いことを言ったものである。なし崩し的にこの方向に進み、かつ裏目に出てしまう、というパターンが、最も日本的であるとは言えるかもしれない。
私の個人的考えを付け加えるならば、最近の私は「日本人の精神性および日本文化は今のまま世界遺産として残すべきではないか」と考え始めている。日本人がマコト主義とシツケ共同体を捨てて「普通の西欧風の国」になった場合、それで21世紀を生き残ることはできるだろうが、いかにも普通で詰まらないという気がする。それよりも、日本人は他の民族にできないことで国際社会に貢献すべきではないか。例えば文化面で。
もちろんその場合、日本という準単一民族国家が国際社会の中で政治的・経済的に生き残ることは諦めた方がよい。マコト主義とシツケ共同体の精神性は、政治と外交に向かない。おそらく日本人は、政治と外交を他の民族に委譲した方がうまくいく。その上で文化の華を咲かせればよい。ローマ帝国の支配の下で文化の華を咲かせたギリシャ人のように。例えばアメリカ合衆国の一部となって日本文化保護区として生き永らえるなど。もしそれが可能であるなら、日本人にとっても世界にとっても最も幸せな道なのではないだろうか。
ギリシャ人は後年ビザンチン帝国を築いたが、衰亡してオスマン帝国の脅威に晒された時に選択を迫られた。ローマカトリックに帰依して西欧諸国の援助を頼むか、それとも宗教的には寛容なオスマン帝国の支配を受け入れギリシャ正教の独自性を保つか。政治的な独立性と文化的な独立性の二者択一において、ビザンツは後者を選んだ。それも一つの生き方ではないか。おそらく日本も遠からずそのような選択を強いられることになると私は予想する。その時に日本人はどのような道を選択するのだろうか。


June 11th, 2008 at 10:41
[...] 今回のように大きく騒がれる事件が発生してしまった場合、マコトをカタチで示さなければならない のが日本社会であるため、お上としては何もしないと言うわけにいかない。 しかし実際のところ実効性のある対策を打つことは極めて困難である。お上もそれはわかっている。わかってはいるが何もしないわけにいかない。下手な対策を打つと世の中にとって迷惑になる。そこで窮余の策として、「カタチは保ちつつも世間的にあまり悪影響の無い対策」を消去法で選び、実行することになる。 なんて馬鹿げた、と思うかもしれないが、お上だけが馬鹿なわけではない。このような行動パターンは民間企業でもごく普通に見られる。馬鹿な対策を打つ方も本音では馬鹿だとわかってはいるのだ。 [...]
October 20th, 2008 at 17:02
[...] マコト信仰 [...]