3年前に私は 司法権 と題した記事を書き、世界で最も三権分立が徹底しているとされるアメリカ人にとって司法権がどのようなものであるかを簡単に紹介した。詳しくはリンク先を見てもらえばわかるが、アメリカの裁判所は 行政府に法律を守らせるために学校を人質に取る ことさえやってのける。
一方日本はその対極に近いところに位置している。立法権と行政権の分離が明確でないのは議院内閣制だからある程度仕方の無い面もあるが、司法権の分離が不徹底なのは日本人の精神性によるところが大きいだろう。
今日たまたま目にしたレジデント初期研修用資料の 司法も対案示してほしい も、そのような日本人の精神性が表れた好例だと言える。
レジデント初期研修用資料の元記事を要約するなら、「苦しい中で頑張ってる人達にも心情的に納得できるような判決を出してくれ」となるだろう。まあ日本人として当然の反応かと思う。日本人の考える三権分立とは、三権がお互いに相手のことを思いやって、相手の心情を害さないように助け合う体制のことである。正論を唱えて和を乱すことは嫌われる。「和」という共通の目標に対して三権が協力することが当然と考えられているため、和を乱すような判決は「対案無き批判」と呼ばれることになる。和を保つためなら法律を曲げるくらい当然である。
一方アメリカ人の考える三権分立とは、お互いが監視し合う体制のことである。三権がそれぞれの立場からの正論を持っており、異なる正論同士がぶつかり合う。対案など無くて当然だ。Title 18 Section 2257 の違憲判決 において第六巡回区控訴裁が何か対案を出しただろうか?
一見するとこれは喧嘩ばかりしていて問題を解決できないシステムのように思える。しかし実際はそうでもない。衝突することが最初からわかっているので、それを計算に入れてお互いが行動するためである。司法取引といったシステムもその一つだし、最高裁判事の任命が大きなトピックになるのもそのためだ。
アメリカは訴訟大国と呼ばれるが、民事訴訟の大半は判決が出る前に和解という形で決着する。アメリカ人は「自分を心情的に納得させてくれる判決が出る」などと言う期待は持たず、裁判に勝つ見込みがあるかを冷静に計算する(冷静に計算できない人の場合は弁護士が助言してくれる)。勝ち目の薄い訴訟なら和解に持ち込もうとするし(勝ち目があると見る側に対しても弁護費用の高さが逆に和解へのインセンティブとなる)、そもそも訴訟を起こされないよう防衛する意識も普段から強い。判決が出た程度で混乱するような現場など、そもそも現場として失格だ、という話になる。法律を曲げなければ維持できないような和など根本から間違っているわけだ。
日本流の考え方とアメリカ流の考え方でどちらがベターかと言うことは簡単には決められない。それぞれに一長一短がある。
しかしアメリカ流のやり方を知っていれば、今回の違憲判決もかなり日本流寄りだと言うことがわかるはずだ。自衛隊派遣は違憲との判断で原告にも名を持たせ、しかし実際の現場が混乱するような実のある項目は何も無し。見事に日本流な判決である。これに対して「対案を示せ」と言うのは、あまりに贅沢と言うものではないか。私ならそう思うが。
アメリカ人が裁判を「紛争を解決するための手段」と認識するのに対し、日本人は判決と言うものを「これが正しいとお上が決めたこと」と捉える癖がある。だからこそ心情的に納得できないと気が済まない。おそらくはそのせいで、原告側に名を持たせただけの箇所にまで「これが正しくないといけないのか?」と食ってかかったりもするのだろう。日本人は司法に対して過大なものを求め過ぎる。曖昧だとか相対的だとか言われる割に裁判の判決には絶対無謬のものを求める日本人の心理というのは、私にとって未だに解明できていない謎である。
とは言え、日本流の解決と言うのは「全ての人が不満を抱えたまま我慢する」というものでもある。三方一両損のように。そういう意味では、あちこちから不満の声が上がる今回の判決というのも、日本流の解決として成功していると言えるのかもしれない。

