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残酷さ、忌諱、多様性と笑い

written by duke on

ビジネスメディア誠の 米国人は「残酷ネタ」で笑う? を読んで、日本人とアメリカ人の「残酷」に対する感覚の違いについて考えてみた。

この記事で挙げられてるサウスパークの「残酷さ」とは、「体を切断される」系の描写である。確かに日本人にはこの種の描写を強く忌諱する傾向がある。しかしそこには、単に「日本人が残酷さを嫌う」と言って終わるに止まらない、日本人の重要な精神性が潜んでいるように私には思える。

この日本人の忌諱が現れるのはアニメやコメディの世界だけでない。現実社会でもそういった存在への直視を避けたがる。注意して欲しいのは、忌諱が「体を切断する」という行為だけでなく、「切断された体」という存在にも及ぶことだ。その顕著な例が、いわゆる障害者だろう。
昔から日本人には、そうした障害者を自分達の視界の外へと隠したがる性向がある。この性向は時として「差別撤廃」という名目を冠して現れる。例えば、日本では広告用ポスターを作る際に人物を指が四本しか無いように見える角度で写真を撮影することは強いタブーとされている。そのタブーはよく「差別的だから」と説明されるが、この説明に納得できないものを感じる人は私も含めて多かろう。ラフォージ少佐 がレギュラーとして登場する STAR TREK: The Next Generation を見慣れていると特にそう感じる。ちなみに ST:TNG は、残酷ネタを好むと言われるアメリカ人が作ったTVドラマであった。
おそらくこの精神性が根元なのだろうと私は見る。そういった忌諱が最初から強く存在し、その帰結として「体切断系のネタでは笑えない」という現象が生じていると考えられる。体の切断が無ければ、例えば熱湯をかけて熱がらせると言ったギャグであれば、日本人でも全く問題無いのだ。

ではなぜ日本人にそういった忌諱が強いのか。ここから先は全くの想像になるが、今日たまたま読んだ KINOKUNIYA書評空間BOOKLOGの『アウトサイダー・アートの世界-東と西のアール・ブリュット』はたよしこ[編著](紀伊國屋書店)の中にヒントを見つけた。同エントリの結びとしても使われている、以下の一文である。

「障害者を見てやっと、健常児は画一的なんだと実感できるように」なったという比較行動学者正高信男氏の言葉がすべてであろう。

これではなかろうか。障害者の存在を認識することは、本当の意味での人間の多様性に直面することを迫られる。「みんな違ってみんないい」というフレーズがあるが、この言い方の表面的な心地良さに漂うだけでは済まない、多様であることが不便・不快・苦痛であるような現実が、そこにはある。
日本人はそのような真の多様性から目を逸らし、健常者間の毒にも薬にもならないような些細な差を「多様性」「個性」などの言葉で飾りたがる。あたかも自分達が多様性や個性を尊重しているかのように。そんなものは本質的に大した差では無いのだが。しかしそのような些細な差であれば、不便さ・不快さ・苦痛をもたらさない。日本社会において多様性や個性とは、不便さ・不快さ・苦痛をもたらさないという範囲においてのみ、認められる。

さらに想像を逞しくすれば、こういう可能性も考えられるのではないか。

  • 日本人にとっての笑いとは、自分が相手と同じ共同体に属している(同じタブーを守る)ことの証明・確認行為である
  • アメリカ人にとっての笑いとは、自分と異なる相手を認める行為である

いやもちろんこれがかなり乱暴な区分けであることは私も承知している。実際にはアメリカ人の間でも例えば経済的階層によってユーモアの認識が大きく異なるし、また Monty Python 以前の笑いにはタブーも多数あった。しかし、例えば「芸能人の常識知らずぶりを笑う」といった精神的いじめ要素を持った笑いが日本でもてはやされることなどを考えると、上記のように完全に二分できるとは言わなくても、そうした傾向の差は結構大きいのではないか。私はそう考えている。


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