isologue の 「ネット法」の発表で考えた、日本人と「フェア」概念 を読んで、fair という英語圏の概念について考えてみた。
Fair という言葉は、もともと古英語で「美しい」を意味する fæger から来ている。しかし英語における fair という語の持つニュアンスは興味深い。
日本語の「公正」に対応する英単語はいくつかあるが、それぞれニュアンスが微妙に異なる。例えば just は「法や原理原則に従っている」ような公正さを意味し、equitable は「関係者それぞれを平等に取り扱う」ことを暗示する。これに対して fair には、「自分の利害・感情・偏見を排して判断する」というニュアンスがある。
ここには英語圏文化の興味深い特性が現れているように思う。英語圏文化の考える「美しさ」と「自分の感情を排する」こととは、イコールとは言わなくても、かなり近い概念なのだ。日本人は逆に「感情をかきたてるもの」を「美しい」と考える傾向が強い。この差は決して小さくないと想像する。
日本人は、自分達の美意識をもとにして世界に冠たる視覚芸術を作り出した。浮世絵・漫画・ジャパニメーションなどである。
一方英語圏、つまりアングロサクソン文化圏の人々は、彼らの美意識をもとにして、世界に冠たる社会経済体制を作り出した、と私は見る。フェアプレイを美徳とする資本主義経済がそれである。彼らにとって資本主義とは、とても美しい体制なのだろう。日本人の資本主義体制への非難が感情的なものになりがちなのも、そう考えると納得できる。
さらに想像を逞しくすれば、コンテンツ産業、つまり美意識をそのまま仕事としている人たちが、fair という概念に近いかどうか、そこにも差が出てくるのかもしれない。磯崎氏は コンテンツを扱う産業の方々というのは、日本の中でも「最も法律とか契約とかから遠いところにいらっしゃる方々」という気がします
と書いており、私もそれに賛同するのだが、それは美意識と fair の概念が離れている日本ならではのことで、美意識と fairness が密着している英語圏ではかなり近いところに位置しているのかもしれない。Fair Use 概念の存在がそれを暗示しているように思える。

