愛ゆえに、人は苦しまねばならぬ
愛ゆえに、人は悲しまねばならぬ
—聖帝サウザー
今さら感はあるが、最近巷で話題の小市民/マッチョ/ハードボイルドについて言及しよう。
冒頭に引用した偉人は「こんなに悲しいのなら、苦しいのなら、愛など要らぬ!」と叫んだが、程度の差はあれ同じような話は多くの人が経験している。マッチョと呼ばれる人の性格も、そうやって形成されたものであることが少なくない。他人の痛みを感じ取って自分も傷ついてしまうからこそ、鈍感さの鎧を心に纏おうとする。他人の痛みに特に敏感である人は、鎧を纏うこと自体にも良心の呵責を覚えるため、加えて理論武装を必要とする。「マッチョでなければ生きていけない」という彼らの言葉は、他人に向けられたものでと言うより、自分を納得させるための言葉であることが多い。
今でこそ 殊勝なこと を書いている ultraviolet だが、かつての彼もそのような道を辿っている。十数年前の彼のマッチョぶりたるや、今でも一部界隈では語り草となっている。彼がマッチョな考え方となったのは、二十年程昔のある出来事で深く傷ついたことがきっかけだったと聞いている。師匠を手にかけたサウザーほどではないが、そういった出来事に例えられよう。
彼の人生で特筆すべきは、その後の別の出来事をきっかけに鈍感さの鎧を捨ててしまったことだ。それはそれでまたかなりの痛みを負った出来事で、ケンシロウに敗れたサウザーに例えられるだろうか。私は時々考える。もしサウザーが死なずにケンシロウの仲間になっていたら、どのような男になっていただろうか。
真のハードボイルドとして生きる道は決して容易ではない。なぜなら真のハードボイルドは、小市民/ウィンプの痛みだけでなく、マッチョの痛みをも理解してしまうためだ。「あいつらには痛みなんてわからないんだ」と切り捨てれば気も楽になるが、それをしないのが真のハードボイルド。そのため、往々にして両者の板ばさみに苦しむことになる。
そのような痛みを切り捨てて先に進むことで成し遂げられることもある。「世界を救う」ような大きなことは、そうしなければ不可能なのかもしれない。それどころか「自分の家族を守る」ことすら簡単では無い。そこを敢えて「切って捨てない」ことを選ぶのが真のハードボイルドの生き方だ。自分の意志として「敢えて選ぶ」ところがポイントである。まさに痩せ我慢の世界。
人が深い傷や痛みを負ったとき、それにどう反応するかというのは難しい問題である。
被害者意識という鎧で自分を守ろうとする人もいる。「自分こそ被害者だ」と思い込めば、他人の痛みに気が回らなくなり、自分が傷つかずに済む。
自己責任主義というマッチョな鎧で自分を守ろうとする人もいる。「被害者が悪い」と思い込むことで、被害者の痛みが伝わってくることを和らげられる。
「自分と同じ小市民を守る」という同朋意識の盾を構える人もいる。そのような人は、同胞の痛みを敏感に感じ取る。しかし自分と敵対するマッチョな人の痛みは、盾に遮られて伝わってこない。
そのような中にあって、真のハードボイルドが纏う鎧は「痩せ我慢の美学」である。それは鎧と言うより添え木に近い。骨が折れても動けるように補強してあるだけで、傷を防ぐことはできない。しかもダメージはあらゆる方向からやってくる。
このような過酷なハードボイルドの道を、自分で実践するだけならともかく、他人にまで勧めるとは、ultraviolet にも困ったものである。
ただ、そのようなハードボイルドの道を敢えて選ぶ人もいるのだ、ということは、憶えておいて損はないと思う。全ての人がハードボイルドを実践する必要は無い。それでも、そういう人の存在を時々思い出してもらえれば、鎧を着た人同士の戦いの中にもまた違った何かが見えてくるのではないだろうか。

