Personal tools

Views

コンテンツの終焉

written by duke on

いずれ改めて書くつもりではいるが、私は著作権という概念自体が既に時代遅れになりつつあり、可能な限り早急に制度そのものを廃止して全く新しい枠組みに移行することが必要だと考えている。コピーワンスを10回にするかどうかだの私的録音補償金を払うかどうかだのダウンロードを違法化するかどうかだのと言った枝葉末節な議論には関わるつもりが無い。
しかし、著作権(特に複製権)が廃止されて誰でも自由に複製を行えるようになったとして、それでP2P擁護派が言うようにコンテンツ産業やコンテンツ芸術が栄えるかと言うと、それにも私は No と答える。著作権制限を厳しくしようと緩くしようと、いずれにしても、コンテンツ自体に未来が無い。

「ドリルを買う客はドリルが欲しいのではなく穴が欲しいのだ」と言うマーケティングの金言があるが、コンテンツを求める客にも同じことが言える。消費者が本当に求めているのはコンテンツでは無い。
にも関わらずコンテンツ自体に価値があると未だに信じ込んでいる権利者側は頭が悪い。また、今さら「コンテンツ立国」を政策として掲げようとするどこかの国の政府にも呆れるしかない。しかし同時に、自分が本当に欲しいものが何であるのか自分でわかっていない消費者にも、事態を悪化させている責任の一端がある。

では本当に求めているものは何か考えてみよう。例として、先月 mara が Techdirt から拾ってきた アメリカ音楽界の現状 を見てみる。私が特に注目した点は以下の二つだ。

  • アーティストのツアー売り上げも増えてる
  • 楽器の売り上げに至っては激増

ツアーと楽器に共通して言えることは、使い古された言葉ではあるが、「体験」ということになるだろう。コンサートに参加することと、自分で楽器を演奏すること。両方とも「唯一無二の体験」である。ニコニコ動画でコメント祭りに参加するのも、そうした体験の一つだと言えるだろう。コンテンツは今や、体験する、あるいは体験を共有するための、トリガに過ぎない。

体験は、少なくとも現在の技術ではコピーできない。コピーできないその場限りの唯一無二のものであるという点で、コピーの氾濫する現代において 相対的な競争力が高まっている と言える。将来技術が進歩して体験もコピーできるようになると、体験さえも競争力を失うのかもしれないが。そのように体験をコピーして売るということを中心的なテーマに据えた SF が、ジョン・ヴァーリィの ブルー・シャンペン である。

ツアーや楽器演奏は体感的な感覚だが、同じ話は Internet 上のサービスについても言える。
消費者の心を掴むサービスとは、アクセスする度に新しい何かがあるサービスである。更新の無い blog は見捨てられる。これも「唯一無二の」「コピーできない」性質を持つと言える。
そのようなサービスを提供する最も手軽なシステム的方法は、ユーザ間のコミュニケーション要素を入れることである。日々メッセージやコメントが届けば、新しい何かと言えるだろう。ただし、ユーザ間のコミュニケーションを活性化させることは必ずしも簡単でなく、寂れて閑古鳥が鳴いているサービスも多々ある。
一方、ユーザが日々新しい要求を持ち込み、それに答える、というサービスも考えられる。Google がその顕著な例だが、はてな人力検索や Yahoo! Answers のような形態も考えられる。他のやり方もいろいろ考えられるだろう。脳内メーカーなどのジェネレータも一つの考え方だ。
また「唯一無二の」を追求すると、やはり Personalization に結びつく。自分がアクセスしたときと他人がアクセスしたときでは違う内容となるようなサービスである。

コンテンツが終焉を迎えた後に栄える次の時代の芸術とは、このようなインタラクティブ性を持ったものになるだろう。唯一無二の、コピーできないような体験を与えるサービスとしての芸術。ゲームはその萌芽と言えるが、パッケージメディアとして売られている限りはコピー可能なので、いずれオンラインに移行する事になるだろう。

また、今のオンラインメディアのマネタイズは主に Google AdSense のようなコンテンツをベースにした方法によって行われているが、これについても体験をベースにしたものに早晩移行していくだろう。アメリカ人という連中もまた著作権の捉え方について頭が悪く(これについてもいずれ書くつもりでいる)、「フィードの Scraping によってコピーblogを作られた、著作権侵害だ」と叫ぶアメリカ人は後を絶たないようだが、それでは「P2PのせいでCD売り上げが下がった」と叫ぶ音楽業界と大差無い。コピーごときで収入の機会を奪われるような脆弱なビジネスモデルの方に問題がある。Blog で金を稼ぐための新しいビジネスモデルが必要だろう。ただしこれについては具体的なアイデアを思いつかないのだが。

もちろん、そうなった先の社会がバラ色の未来になるかと言うと、そうとも限らない。これまでのコンテンツには 集団幻想としての同期性 を担う役割が課せられており、だからこそ「人気コンテンツを自分も見ておかないと(話題に取り残される)」といった同調圧力が働いていた。私はそのような同調圧力を平然と跳ね除ける人間なので気にならないが、コンテンツから体験への分解が進んだ社会では、新しい同調圧力が別の形で生まれることになるのかもしれない。そしてそれは、Internet 社会で既に進行中のようにも思われる。

Postedit on 2007/12/30

自分でも書いていて思ったのだが、この話は割と前から様々な人によって議論されているものであって、今回もこれまでの議論の域からあまり出ていない、新規性の薄い話になってしまった。と思ったらやはりそのように指摘されてしまった。
それだけではどうかと言う気もするので、追加で「コンテンツを所有すること」について考えてみる。と言っても、これも1年半前に 映像の所有欲 の話のときに書いたことの蒸し返しになるのだが。

人間にはCDやDVDのような物理メディアの形でコンテンツを所有したがる習性がある。しかしこれは、コンテンツ自体を消費者が求めている、ということとイコールではない。消費者は「所有している実感」を求めているのだ。
例えば動画メディアについて考えて見る。「いつでも繰り返し閲覧できます」と言っても、ストリーム配信では所有感が薄い。DRMのかかったダウンロードはその次ぐらいになる。DRM無しのダウンロードはかなり実感が高まってくる。そして物理メディアがあると実感としても最高になる。実はコンテンツの中身よりも、器の方が重要であったりする。

しかしそもそもの疑問として、人はなぜ所有したがるのだろうか。もちろん個人として所有したがるという本能もあるのだろう。しかし人間が社会的な生物である以上、所有についても社会的行動の中で見る視点を欠くことはできない。前回も書いたように、「所有していることを周囲に誇示する」ことが重要なキーになる。
例えば、イギリス産の上質なコンテンツとして知られる Encyclopedia Britannica などの百科事典を買っていたのは、実際のところ、コンテンツの中身を必要としている層ではなく、書斎に並べておくことでステータスシンボルとしたい層が中心だった。そのような上流階級が没落してくると、百科事典をもっと下の層にも売りつけるべく、強引なセールスマンが巡回するようになり(日本だと新聞勧誘員に当たるのだろうか)、Monty Python などで揶揄されるようになった。もちろん知の牙城を維持するためには金がかかるのが現実なので、そういった地回り的な金集めも必要だったのだろうが、ステータスシンボルとしての地位を完全に失った21世紀の今日では Wikipedia にその座を明け渡すのも必然かと言う気もする。ちなみに地回り的な金集め努力の必要性は Wikipedia でも変わっておらず、サーバ増設のための寄付獲得は Wikimedia 財団にとっての最優先事項である。
また一部のファンコミュニティ、特に音楽系に顕著なのだが、所有を示すことがファンを名乗るためのほとんど前提条件となっているケースもある。この「所有を他人に示す」ところに目をつけた音楽系SNSはさすがだったと言える。
このような「所有を示す」ことの社会性が違法ファイル交換を促進しているという側面もある。例として適切かどうかわからないが、チャイルドポルノ愛好家のコミュニティではそのような「こんなに凄い画像を持っている」と示すことの快感が、違法ファイル提供に人々を駆り立てている、という指摘が、実際にチャイルドポルノ容疑で逮捕されたコミュニティメンバーから為されている。

このように、コンテンツ所有の背景には、コンテンツの中身だけでなく、社会的行動への欲求というものも存在してする。これも「社会的な体験」への欲求である、と言い換えられるだろう。
その社会的体験を得るためのキーとしてコンテンツが位置づけられているのが現在の状況だ。権利者側は社会的体験から独立してコンテンツ自体に価値があるとして議論を進めたがっているが、これは正しくない。もし本当にコンテンツを売りたいなら、社会的体験との連携をさらに進めるような販売戦略を取るべきだろう。そのような体験を得る機会をオンラインサービスとして提供することも効果的だ。この方面にはまだまだアイデアを働かせる余地がある。

しかしそうやってもなお、将来的にはコンテンツ自体が滅びていくように私には思える。それは、コンテンツ自体の本当の必要性というものが、我々が常識として思い込んでいるよりも遥かに低いからだ。


9 Responses to “コンテンツの終焉”

  1. comment from 福澤@ウィキア

    そして、ヴェンヤミンの「複製技術時代の芸術」を読むマーケッターが増え、「体験」が「アウラ」という語で置き換わるんですね。

    ただ、基本的には、ひとつ昔前の消費幻想論でひとつしきり語りつくされた気がしないでもないですが…。

  2. trackback from DESIGN IT! w/LOVE

    身体なき体験の終焉(いや、はじまってもないけど)…

    もっとらしく見えて実はここには見落としがあるのでは? 「ドリルを買う客はドリルが欲しいのではなく穴が欲しいのだ」と言うマーケティングの金言があるが、コンテンツを求める客…

  3. pingback from links for 2007-12-30 « 個人的な雑記

    [...] Rauru Blog » Blog Archive » コンテンツの終焉 (tags: contents business copyright trends) [...]

  4. trackback from nanmoない!! -Edit Myself!- (PukiWiki/TrackBack 0.3)

    カレンダー/2007-12-31…

    カレンダー http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1564 コンテンツの終焉24 written by duke on Saturday, December 29th, 2007 at 16:00 いずれ改めて書くつもりではいるが、私は著作権という概念自体が既に時代…

  5. trackback from P2Pとかその辺のお話

    コンテンツは砕けないッ!…

    コンテンツの終焉という記事を読んだ。非常に興味深い話なのだけれども、いささか引っかかるところもある。

  6. comment from James Hong

    人間にはCDやDVDのような物理メディアの形でコンテンツを所有したがる習性がある

    オリジナルのデーターはまだ4Gから9Gとかなり大きいのが現実です。
    結局DVDに保存する手間といろいろ考えるとパッケージ番方が楽?というのもありあす。 
    (自分の時間=無料と考えるなら別ですが)

    自分は結局かなり買うほうですけど (安くなるまで待ってDVDがセールのときにかいますが。)

  7. pingback from 12/30(日)撮影拒否に「映っちゃってるよ、もう十分」 「朝ズバッ!」みのさん訴えられる | へのつっぱりはいらんですか

    [...] 刑事罰かどうかという視点。関連→コンテンツの終焉 (Rauru [...]

  8. trackback from シリアルイノベーション

    コピーできないもので、自慢できるものに価値がある(2)…

    年末、Rauru Blogのduke氏の「コンテンツの終焉」を読んでほぉーと思い…

  9. pingback from Rauru Blog » Blog Archive » ダウンロード違法化に至る心理

    [...] コンテンツ自体に未来が無い [...]

Leave Your Reply

XHTML: You can use these tags: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong>

« Back to text comment