内田樹の研究室に掲載された まず日本語を を読んで考えたこと。
私も理想的にはそのように日本語教育を徹底することで論理的思考や対話能力を高められたら素晴らしいと思うし、確かにそれが部分的に可能なところもある。しかし残念なことに「ロジカルで音韻の美しい日本語の名文」というものはほとんど存在しないと言ってよい。存在したとしてもそれは「文法的に日本語である」というだけで、我々のイメージする日常的な日本語とはかけ離れたものになってしまう。我々の使用している日本語は本質的にロジカルでないし、また対話も存在しない。あるのは空気を醸成するためのモノローグの集合だけだ。
実は私自身、小学校の頃からしつこく音読をさせられてきたため、音読がたいへん効果があるということは身をもって知っている。私が英文をそれなりの速度で読めるのも、幼少時に日本語を音読してきた賜だと考えている。
しかしその私でさえ、まともな文章を書けるという自信がついたのは、会社で英作文の研修を受けてからだった。英文を書くようになって初めて文章の書き方というものを理解でき、日本語の文章力も向上したと思う。日本の学校は日本語の書き方について何ひとつ教えていない。おそらく日本語について日本語で教えるということ自体に無理があるのではなかろうか、と考えている。
この点についての指摘としては、今から8年前に西村肇氏が「言語」誌に寄稿した「論理的な表現とロジカルな表現」が白眉だろう。司馬遼太郎の「坂の上の雲」の文章がいかに非ロジカルかを丁寧に説明した後、次のような文章が続く。
したがって結論として言えば、私は単純に日本語をロジカルにしようとする努力には疑問を感ずる。日本語の目的はロジカルな対話とか議論による決着にあるのではなくもっと別のところにあるのだろう。それは比較的均質な人間集団がまとまって行動するために「雰囲気」を作るコトバとして発達したのであろう。上下関係と対面を気にし、しかも嫉妬心が強い社会の中で上下に自己実現をはかるためには欠かせない表現手段だと思う。それはそれで非常に大事なことではないか。ロジカルな表現で議論する必要があるなら、それに適したコトバでやるほうがよい。英語でやるほうがよい。日本人同士でも。これからは、それができる教育が必要だと思う。そしてその影響が自然に日本語にもおよんで来るというのが、実際的な解決だと思う。
非の打ちどころのない正論である。
最近の西村氏はさらに遠いところまで行ってしまわれたようで、Comunication in Japanese などを読むと「知的活動の足を引っ張る日本語」など過激な指摘が並んでいるが、たしかにいちいちもっともなものではある。
繰り返すが、音読に素晴らしい効果があることは間違いなく、日本語を音読させることが教育の第一段階として必須であることにも異論は無い。しかしそれは最初の一歩に過ぎない。それと並行して、日本語以外でロジカルかつ美しい文章を音読させることも重要だろう。外国人と会話するためではなく、日本語をロジカルに駆使するために。
もちろんそれが英語である必要は無い。英語よりもロジカル性の高い言語としては、ラテン語あたりもお勧めかと思う。某藩お抱え漢学者の末裔である ultraviolet だったら漢文を勧めるかもしれないが。
2006/02/05 追記:
この記事が予想外に反響を呼んだようだ。普段のこの blog では考えられないほど様々なフィードバックを頂き、私の文章に至らぬところがあったと痛感したので、いくつか補足しておきたい。
まず「ロジカル」という言葉の意味について。これは西村肇氏が「論理的な表現とロジカルな表現」の中で使った語をそのままの意味で私も使っているのだが、このタイトルが示すように、「ロジカル≠論理的」である。「ロジカルな表現」というのは「論理的な表現」という意味ではない。むしろ、一部の方から指摘があったように、「レトリカルな表現」の意味の方に近い。しかし英語圏で logical と言えば実際にこちらの意味で使われている。この点について紹介しているページ を見つけたので、ぜひ参照されたい。
次に、母国語とパーソナリティは切り離されて存在するのか、という批判を頂いたが、私も「言語とパーソナリティは相互に強い影響を与えている」と考えている。だからこそ母国語以外の言語を学ぶことが重要になる、との考えだ。
これについてもやはり「論理的な表現とロジカルな表現」の中で象徴的な例が出てくる。アメリカからの帰国子女でバイリンガルな女性なのだが、日本語で会話しているときは控え目でいかにも大和撫子という感じなのに、英語で会話するときには急に自己主張が活発になる方がいらっしゃるのだそうだ。
使う言語はパーソナリティにも影響を与える。その影響は、単に日本語を日本語のままでロジカルにしようとするだけの場合よりも、遥かに大きい。それが、日本語以外の言語を奨める理由である。
最後に、そうやってマルチリンガルでロジカルな思考を習得した場合に何も問題が起きないかとの点だが、起きないわけでもない。まだ証明されてはいないのだが、昔からよく言われていることとして、マルチリンガルな環境の人間は情緒的な文学表現能力が低下しがちである、という点は指摘されている。例えばスイスで文学があまり発達しなかった理由としてこれを挙げる人は多い。
この点はまさに日本人が得意としてきた分野であり、それは日本人が外国語音痴であることとも符合する。マルチリンガルな環境へと切替えた場合、この面についての機能低下が起きることは覚悟せねばなるまい。ひょっとしたら、影響は文学だけでなく、他の日本が得意とする情緒的芸術分野、たとえばアニメーションなどにも及ぶかもしれない。
ただ、それを考慮してもなお、日本人のロジカル思考化は21世紀の国際社会において必須、というのが私の持論だ。もちろん日本人の間で分業するという手もあり得るが。


February 4th, 2006 at 17:55
漢文専攻だったのは祖父の代までで、私はすでに漢文読めません。
しかし日本の中学校でもラテン語を教えるようになると、「ローマ人は何人?」「複数、複数、ITE!」の光景が日本の教室で見られるようになるのでしょうか。
February 4th, 2006 at 18:59
でもラテン語に精通してるはずの塩野七生の文章は全然ロジカルに思えないんだけど
February 4th, 2006 at 19:52
[...] Rauru Blog » Blog Archive » 確かに、まず日本語ではあるが 我々の使用している日本語は本質的にロジカルでないし、また対話も存在しない。あるのは空気を醸成するためのモノローグの集合だけだ。 [...]
February 5th, 2006 at 0:26
[...] まあ日本人は comment/trackback に消極的ってのはあるよね duke が言ってた 日本語には対話が無い って話にも絡むけど はてなブックマークを全部 comment だと数えれば、うちも1より小さくなるかな UTW tags : blogging, comment, trackback [...]
February 5th, 2006 at 1:39
[言語]日本語はロジカルでない…?
[http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1207:title=Rauru Blog ≫ Blog Archive ≫ 確かに、まず日本語ではあるが] を読んでいろいろ考えることがあった。 しかし残念なことに「ロジカルで音韻の美しい…
February 5th, 2006 at 5:25
「日本の学校は日本語の書き方について何ひとつ教えていない」のは全く同意だが、論理的な日本語の書き方を教える方法が存在していると思うので「おそらく日本語について日本語で
February 5th, 2006 at 23:18
日本語の非論理性
Rauru Blog の「確かに、まず日本語ではあるが」が興味深い。ぼく自身は,どんな言語でも論理を表現することはそんなに難しくなく可能なんじゃない…
February 6th, 2006 at 12:00
No Language Is an Island
前半には同意する。
あえて英語公用語論
船橋 洋一
Rauru Blog ? Blog Archive ? 確かに、まず日本語ではあるがしかしその私でさえ、まともな文章を書けるという自信がついたのは、
February 6th, 2006 at 13:16
[...] Rauru Blog ≫ Blog Archive ≫ 確かに、まず日本語ではあるが [...]
February 7th, 2006 at 12:58
[言語]追記。
[id:trb-es:20060204#1139071167:title=日本語はロジカルでない…?]に関して追記。 [http://wordpress.rauru-block.org/index.php/1207:title=Rauru Blog ≫ Blog Archive ≫ 確かに、まず日本語ではあるが] に追記なさって…
August 27th, 2006 at 15:47
He is welcome to use my translate. Test :[url=http://translate.nspider.co.uk/][/url].