西尾さんの ゲームの面白さに関するブレスト に触発されて、久々に ゲームの面白さ について考えてみた。
ゲームの面白さについて考察することは私も20年以上昔からやっているのだけれど、これについて考察する人のほとんどって、「自分がゲームしてて面白いと思う箇所」についてひたすら考察を深めていくのは得意だけど、「自分には面白いと思えないが他の人によると面白いらしい箇所」について考察するのは一様に不得手だよね、てのが10年程前から感じていること。それぞれ自分の内側だけを見ての議論になって、水掛け論になりやすい。まあこれはゲームの面白さに限らず「○○の面白さ」という主観を扱う議論になると必ず出てくる問題なんだけど、でもゲームではその点が先鋭化しやすい。私がゲームについての議論から遠ざかった背景には、そういう点への反省も理由の一つにあります。
なんで今回は、羹に懲りて膾を吹くべく、この「自分に面白いと思えない箇所」について分析するに留まらず、さらにあっち側に行っちゃって、「こんなところを面白いと主張する人なんて滅多にいないし、もちろん自分にとっても面白いとは思えないんだけど、しかし行動科学的に考えるにここが面白いという結論にならざるを得ない箇所」について考えてみたいと思います。
今回サンプルとして取り上げるのは、作業 です。
世の中には作業ゲーと言う言葉があって、一般にはこれってクソゲーを構成する要素の一つと見なされてるようです。
でも思うんだけど、評価の高いゲームでも、作業的側面って意外とあるよね。クロフォード/コスティキャン的分類で言うところのパズルを解く過程でも作業って結構ある。作業的要素があっても、作業自体が楽しければスルーされて良ゲーと呼ばれ、楽しくなかった場合にだけ作業ゲーというレッテルを貼られることになる。RPGのレベル上げでも楽しく作ってあるものはレベル上げ作業自体が楽しいし。作業自体が悪い要素かって言うと、私にはそう思えないんです。
さらに昔RPGのゲームマスターやってた経験から言うと、プレイヤーに作業をさせるのって結構重要なんですよ。意思決定や知的なパズル、あるいは創造的と称されるようなアーティスティックな活動よりも、むしろ単純作業を大目に盛り込んだ方が、プレイヤーの満足度は高くなる。てのが私の実体験から学んだことです。
それが何故かってのは私も完全には理解できてないんですが、どうも「参加感」とでも言うような何かがあって、単純作業ではあっても作業すること自体が「俺ってゲームに参加してる」的な感覚を高めてくれるみたいなんです。
参加感はソロプレイでも重要ですが、多人数でゲームをプレイするときに特に影響が大きくなると認識してます。人がゲームをプレイするときって、ゲームで複雑な精神活動を発揮して楽しむてのも重要なんだけど、どうもその前に「他人と一緒のゲームをプレイしてるんだ」という実感自体が重要なんじゃないかって気がしてる。マズローの欲求段階説に当てはめて言えば、下の方にある所属欲求になるんかな。なのでここではそういうのを便宜的に低次の面白さと呼ぶことにして、もっと複雑なハードコアゲーマー好みの面白さを高次の面白さと呼ぶことにします。
んでさー、こういう「低次のところが実際には効いてくるんだよ」てな話は、私も含めてハードコアなゲーマーにはあまり好かれないんですよ。特にゲームの面白さを論じたがるゲーム論壇(そんなん本当にあるかは知らん)的な人たちには嫌われ易い。高次の面白さは実はあんまり関係無いんだよ的な結論になり易いかんね。でもそれって、イノベーションのジレンマに似た構図があるよね。
さらに言うと、ハードコアなゲーマーが高次の面白さだと認識してるような要素ってのも、実は低次の面白さを無理やり高次のフレームに当てはめて解釈してることが多かったりする。例えば一時期流行った「ゲームは創造的芸術だ」論の大半はそっちだよねえ。ゲームをポストモダンアートとして捉えてとか、つまり ywad.com の人が東浩紀のオタク論壇について言ってるような話。
ywad.com — 動物化するポストモダン
著者のもともとの目的は、仮に世の中の人を「モダン」と「ポストモダン」と「オタク」に分けたとして、「ポストモダン」と「オタク」の類似性を強調し、あるいは後者を前者の流れの中に位置づけることで、「モダン」と「ポストモダン/オタク」の二分法と、「オタク」が「ポストモダン」の正統的な後継者であるというアイデアを、「モダン」の人に納得させることなんだと思われる。なお、上に書いた私の立ち位置は(自分で書いていて恥ずかしいが)「ポストモダン」である。AさんとBさんとCさんがいて、Cさんが、自分がBさんと仲がいいことをAさんに見せつけるためにBさんと手をつないだが、Bさんは困惑しているという図式。
実はホイジンガのホモ・ルーデンスやカイヨワの四分類にも似たようなフレームがあったりせんだろか。どうしてもこういうゲーム論って「ゲームという娯楽の社会的地位を向上させたい」という論者の思いが投影されて、恣意的な議論になりがちだと思う。
まあ私もそういう「高次のゲーム的面白さ」を追及するのが大好きなハードコアゲーマーなので、「どうすれば高次の面白さを深められるか」についてテクニカルな議論を展開するのは大歓迎です。
なんだけど、おそらくゲームの面白さを掘り下げて考える上では、認知心理学的なベースが必要なんじゃないかって気が最近してるんですよ。無意識の部分も含めた人間の認知活動ってのがあって、その氷山の一角が水面上に現れて「ゲームの面白さはここだ」的な議論になる。けど水面下で動いている人間の精神活動を、詳細に把握とまでは言わなくてもベースとして押さえておかないと、実際にゲームを面白くするエンジニアリングとしては機能しないと思う。
例えば「ストーリーテリングが面白い」てのはなんか規定事実のように扱われてるけど、それは何故?
十数年前には「ストーリーテリングが芸術表現だから」みたいな言説が流行ったけど、私はそれ全然信じてなくて、それより「人間の脳にとってストーリーという認知フレームが親和性高いんじゃないか」みたいな認知心理学的な話を掘り下げる方が生産的じゃないかと見てる。
もちろん「認知しやすいゲームが楽しいゲーム」みたいな単純な話に落としこめるわけじゃあないと私も思います。難しいUIを征服するのが楽しいってゲームもあるし。けどその場合でも「自分の上達ぶりが認知できる」ようなメタ認知が重要だったりとか、やっぱり認知心理学に深く関わる話になると思うんですよ。いろいろ突くべきところはあると思う。そういう辺りを何ぞ考えてみんかね。
かく言う私は、先月から塊魂にはまっております。今週の関西旅行では、滋賀の田んぼや清水寺の観光客、神戸の港のクレーンなどを見るたびに、「これがーっと巻き込んだら気持ちいいよね」と妻と言い合っておりました。ちなみに妻は乙女ゲー好きです。