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Wikipedia の報道協定

written by duke on

先週 APF などが伝えたニュースだが、昨年秋にアフガニスタンでタリバンに誘拐・監禁されていた New York Times の David Rohde 記者が、脱出して保護されたらしい。
私はこの誘拐されていたという話を全く知らなかったのでどうしたことかと驚いてよく読んでみると、この誘拐事件については New York Times 等マスメディアの間での報道協定により、報道が自粛されていた模様だ。

しかし同じ New York Times の別の記事 Keeping News of Kidnapping Off Wikipedia を読んでさらに驚いた。この記事によれば、Rohde 記者誘拐事件について Wikipedia 上でも何度かユーザによる編集として書き込まれたことがあったが、いずれも報道協定によって削除されてきたのだと言う。削除は Jimmy Wales と Wikipedia 管理者達、そしてイギリスの The Times 紙との協力によって行われた、とこの記事では述べている。New York Times の公式スポークスマンから Jimbo に対して直接報道協定の申し入れがあった模様である。

記事中で Jimbo が述べているところによれば、この誘拐事件については他のマスメディアが沈黙していたことから、「信頼できるソースが無い」ということを削除理由として処理されていた様子だ。確かに管理者としても扱いやすい状況だったと言うことだろう。
それでも記事中には管理人とユーザとのやり取りがヒートアップしていく様子が描かれており、興味深い。誘拐事件についての記述に固執するユーザもいたようで、先週 Rohde 記者脱出の報が世界を駆け巡ると、管理人に「ほら見ろ、削除は間違いだったじゃないか」との罵声が管理者に浴びせられたそうだ。Wikipedia 管理者というのも同情されてしかるべき立場かと思う。

この事件は、Web2.0的な市民ジャーナリズムと検閲との関係がなかなか一筋縄ではいかないということを改めて思い起こさせるものだと言える。CGM への報道協定の適用は、いったい誰がどのように判断してどう適用すべきなのだろうか。マスメディアはいずれ滅亡するがその後は現在のマスメディアが負っている責任をユーザ1人1人が負わねばならなくなる とは ultraviolet の指摘だが、そのような社会の到来は意外と早いのかもしれない。

参考: 「報道協定」についての Wikipedia 日本語版エントリ

著作権とフロンティア

written by duke on

一年半以上前に 著作権の歴史 と題して、イギリスでの著作権制度がどのような過程を経て成立したかを説明した。いささか時間は経ってしまったが、今回はその続きとして、アメリカで著作権制度がどのような生い立ちをたどったかについて、私の考えを書いてみる。
今さらこのようなエントリを起こす理由だが、巷で話題になっている Google Book Search について、また別の角度から眺める視点として有益ではないかと考えるためだ。

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コンテンツに付随する価値

written by duke on

P2Pとかその辺のお話@はてな の 岸さんの言うとおり!既存のコンテンツ産業から搾取するのを止めよう! で Jamendo が勧められているのを読んだ。その主旨には賛成なのだが、それと同時に我々は「何故 Jamendo の音楽がそれほど聴かれていないのか」について考える必要がある。そこに、「コンテンツ」と呼ぶものに我々が実際に何を求めているのかを考える鍵があると私は考えている。そこを考えれば、Jamendo を勧めることが何故必要かも更に深く理解できるはずだ。

以前 コンテンツの終焉 というエントリを書いたことがあるが、私は「コンテンツ自体の価値」というものをあまり高く認めていない。我々が金を払ってコンテンツを購入するとき、実はコンテンツそのものに価値を見出して金を払っているというよりも、コンテンツに付随する別のものに価値を見出している方が割合として多い。
今回は、その「コンテンツに付随する別のもの」として、効用と手間の二つを取り上げてみる。

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ゲームの面白さ

written by ultraviolet on

西尾さんの ゲームの面白さに関するブレスト に触発されて、久々に ゲームの面白さ について考えてみた。

ゲームの面白さについて考察することは私も20年以上昔からやっているのだけれど、これについて考察する人のほとんどって、「自分がゲームしてて面白いと思う箇所」についてひたすら考察を深めていくのは得意だけど、「自分には面白いと思えないが他の人によると面白いらしい箇所」について考察するのは一様に不得手だよね、てのが10年程前から感じていること。それぞれ自分の内側だけを見ての議論になって、水掛け論になりやすい。まあこれはゲームの面白さに限らず「○○の面白さ」という主観を扱う議論になると必ず出てくる問題なんだけど、でもゲームではその点が先鋭化しやすい。私がゲームについての議論から遠ざかった背景には、そういう点への反省も理由の一つにあります。
なんで今回は、羹に懲りて膾を吹くべく、この「自分に面白いと思えない箇所」について分析するに留まらず、さらにあっち側に行っちゃって、「こんなところを面白いと主張する人なんて滅多にいないし、もちろん自分にとっても面白いとは思えないんだけど、しかし行動科学的に考えるにここが面白いという結論にならざるを得ない箇所」について考えてみたいと思います。

今回サンプルとして取り上げるのは、作業 です。

世の中には作業ゲーと言う言葉があって、一般にはこれってクソゲーを構成する要素の一つと見なされてるようです。
でも思うんだけど、評価の高いゲームでも、作業的側面って意外とあるよね。クロフォード/コスティキャン的分類で言うところのパズルを解く過程でも作業って結構ある。作業的要素があっても、作業自体が楽しければスルーされて良ゲーと呼ばれ、楽しくなかった場合にだけ作業ゲーというレッテルを貼られることになる。RPGのレベル上げでも楽しく作ってあるものはレベル上げ作業自体が楽しいし。作業自体が悪い要素かって言うと、私にはそう思えないんです。

さらに昔RPGのゲームマスターやってた経験から言うと、プレイヤーに作業をさせるのって結構重要なんですよ。意思決定や知的なパズル、あるいは創造的と称されるようなアーティスティックな活動よりも、むしろ単純作業を大目に盛り込んだ方が、プレイヤーの満足度は高くなる。てのが私の実体験から学んだことです。
それが何故かってのは私も完全には理解できてないんですが、どうも「参加感」とでも言うような何かがあって、単純作業ではあっても作業すること自体が「俺ってゲームに参加してる」的な感覚を高めてくれるみたいなんです。
参加感はソロプレイでも重要ですが、多人数でゲームをプレイするときに特に影響が大きくなると認識してます。人がゲームをプレイするときって、ゲームで複雑な精神活動を発揮して楽しむてのも重要なんだけど、どうもその前に「他人と一緒のゲームをプレイしてるんだ」という実感自体が重要なんじゃないかって気がしてる。マズローの欲求段階説に当てはめて言えば、下の方にある所属欲求になるんかな。なのでここではそういうのを便宜的に低次の面白さと呼ぶことにして、もっと複雑なハードコアゲーマー好みの面白さを高次の面白さと呼ぶことにします。

んでさー、こういう「低次のところが実際には効いてくるんだよ」てな話は、私も含めてハードコアなゲーマーにはあまり好かれないんですよ。特にゲームの面白さを論じたがるゲーム論壇(そんなん本当にあるかは知らん)的な人たちには嫌われ易い。高次の面白さは実はあんまり関係無いんだよ的な結論になり易いかんね。でもそれって、イノベーションのジレンマに似た構図があるよね。

さらに言うと、ハードコアなゲーマーが高次の面白さだと認識してるような要素ってのも、実は低次の面白さを無理やり高次のフレームに当てはめて解釈してることが多かったりする。例えば一時期流行った「ゲームは創造的芸術だ」論の大半はそっちだよねえ。ゲームをポストモダンアートとして捉えてとか、つまり ywad.com の人が東浩紀のオタク論壇について言ってるような話。

ywad.com — 動物化するポストモダン
著者のもともとの目的は、仮に世の中の人を「モダン」と「ポストモダン」と「オタク」に分けたとして、「ポストモダン」と「オタク」の類似性を強調し、あるいは後者を前者の流れの中に位置づけることで、「モダン」と「ポストモダン/オタク」の二分法と、「オタク」が「ポストモダン」の正統的な後継者であるというアイデアを、「モダン」の人に納得させることなんだと思われる。なお、上に書いた私の立ち位置は(自分で書いていて恥ずかしいが)「ポストモダン」である。AさんとBさんとCさんがいて、Cさんが、自分がBさんと仲がいいことをAさんに見せつけるためにBさんと手をつないだが、Bさんは困惑しているという図式。

実はホイジンガのホモ・ルーデンスやカイヨワの四分類にも似たようなフレームがあったりせんだろか。どうしてもこういうゲーム論って「ゲームという娯楽の社会的地位を向上させたい」という論者の思いが投影されて、恣意的な議論になりがちだと思う。

まあ私もそういう「高次のゲーム的面白さ」を追及するのが大好きなハードコアゲーマーなので、「どうすれば高次の面白さを深められるか」についてテクニカルな議論を展開するのは大歓迎です。
なんだけど、おそらくゲームの面白さを掘り下げて考える上では、認知心理学的なベースが必要なんじゃないかって気が最近してるんですよ。無意識の部分も含めた人間の認知活動ってのがあって、その氷山の一角が水面上に現れて「ゲームの面白さはここだ」的な議論になる。けど水面下で動いている人間の精神活動を、詳細に把握とまでは言わなくてもベースとして押さえておかないと、実際にゲームを面白くするエンジニアリングとしては機能しないと思う。

例えば「ストーリーテリングが面白い」てのはなんか規定事実のように扱われてるけど、それは何故?
十数年前には「ストーリーテリングが芸術表現だから」みたいな言説が流行ったけど、私はそれ全然信じてなくて、それより「人間の脳にとってストーリーという認知フレームが親和性高いんじゃないか」みたいな認知心理学的な話を掘り下げる方が生産的じゃないかと見てる。

もちろん「認知しやすいゲームが楽しいゲーム」みたいな単純な話に落としこめるわけじゃあないと私も思います。難しいUIを征服するのが楽しいってゲームもあるし。けどその場合でも「自分の上達ぶりが認知できる」ようなメタ認知が重要だったりとか、やっぱり認知心理学に深く関わる話になると思うんですよ。いろいろ突くべきところはあると思う。そういう辺りを何ぞ考えてみんかね。

かく言う私は、先月から塊魂にはまっております。今週の関西旅行では、滋賀の田んぼや清水寺の観光客、神戸の港のクレーンなどを見るたびに、「これがーっと巻き込んだら気持ちいいよね」と妻と言い合っておりました。ちなみに妻は乙女ゲー好きです。

著作権による中間業者

written by duke on

POLAR BEAR BLOG の Google はなぜ強力な中間業者なのか? を読んで、本題とは少し違ったことが頭に浮かんだので、今回はそれについて書いてみる。

コンテンツの飽和により中間業者がパワーを握るという話については、2年半ほど前に コンテンツ・パッケージングの台頭 という記事の中で言及したことがある。しかし今回は、この中間業者による流通制御というアナロジーを、新聞とGoogleとの関係ではなく、他のものに適用して考えてみてはどうかというアイデアが浮かんだ。何に適用するかと言うと、著作権制度についてである。

著作権というのはコンテンツおよびコンテンツホルダを保護するための制度であると一般に信じられている。もちろん実際そのように運用されている側面もある。しかし、著作権という制度が実はコンテンツホルダではなく中間業者を保護するために使われている、という仮定から出発して世の中を眺めてみてはどうだろう。

これは決して新しい発想ではない。以前 著作権の歴史 の中で概説したように、イギリスにおける著作権制度はもともとコンテンツホルダ(書籍の執筆者)ではなく中間業者(印刷出版業者)を保護するために作られた制度である。そして同様の構図は他のコンテンツにも見てとることができる。音楽業界しかり。映画業界しかり。

この視点に立って物事を眺めてみると、著作権制度とはコンテンツの流通を独占的に制御するためのものである、ということが理解できる。映画の頒布権はまさにそのための制度であるが、他のコンテンツにおいても複製や譲渡を制限することにより実質的な流通制御が為されている。コンテンツ生成はクリエイター過剰問題があるためコモディティ化しやすいが、その場合でも中間業者としての映画会社やレコード会社は流通を強力に制御できるため利益を確保できる。

一方、P2Pファイル共有に代表される違法コピーに目を向けてみると、これがまさに既存中間業者による流通制御の独占を破壊するものだとわかる。違法コピーに対してはコンテンツクリエイターよりもレコード会社や映画会社の方が厳しい姿勢を見せているが、その理由も納得が行く。
逆にミュージシャンの中にはレコード会社の方針に反して違法コピーを許容する人もいる。これはレコード会社という中間業者を放逐したい考えなのだと解釈できる。その一方でレコード会社と対決姿勢を貫きつつも違法コピーに対しても厳しい姿勢をとる Prince のような人もいるが、これはレコード会社を駆逐した中間業者を兼任しようとしているのだと考えられるだろう。
また Google News に対しては著作権侵害で訴訟を起こした新聞社もあったが、これなどはまさしく著作権制度の正しい使用法と言えるだろう。

いずれにせよ、コンテンツ生成ではなく流通制御こそが金脈である以上、コンテンツ立国といった政策を掲げようとすればどうしても流通をコントロールするという話にならざるを得ないだろう。そこに著作権政策論議の難しさがある。ultraviolet や mara は DRM が大嫌いだが、複製のコントロール権を持ち続けることこそ中間業者がコンテンツをマネタイズする生命線であり、利用者の利便性と本質的に対立する。
それとも、著作権という方法によらずにコンテンツをマネタイズするうまい中間業者的仕組みが何か考えられるだろうか。もしそれが可能なら面白いことになるだろう。ただ、Google は広告という道で生きていくつもりのようだが、私はそれにあまり説得力を感じていない。

rel=canonical

written by ultraviolet on

HTMLヘッダ中で rel=”canonical” を指定して meta タグを記述することにより、サイト内ファイルの検索エンジンへの重複登録を防ぐことができるようになった、という話を聞いて、WordPress 用 plugin を書いてみました。

元ネタはこれ。

サイト内の重複コンテンツを防ぐ新たな手段、rel=”canonical”が登場

「SEOmoz | Canonical URL Tag - The Most Important Advancement in SEO Practices Since Sitemaps」によると、Google、Yahoo!、Live(Microsoft)の3社から「ページの標準URLを定義」して「サイト内の重複コンテンツを防止する」ための新たな手法が発表されたようです。
その方法とは、ページの head タグ内に次のような link タグを記述するという簡単なもの。

この rel=”canonical” によって、めんどくさい RewriteRule などを定義することなく、検索エンジンに対して望ましいURLを伝えることができます。

素晴らしい。しかしこれって、検索エンジンよりも Social Bookmark の方で是非とも対応して欲しいな。なんか RSS リーダから読んだとき URL に ?ref=rss とか言う馬鹿げたものをくっつけるせいでブックマークが分散してしまう、つうサイトがなんか世の中には結構あるんだけど、登録時に rel=”canonical” で正規化してもらえると嬉しい。

そういうわけで、plugin のコードですが、こんな感じ。
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マスターベーションによる前立腺癌リスク

written by nakanohito on

イギリスの Metro など各誌が一斉に、マスターベーションの回数が多い男性ほど前立腺癌にかかりやすい というニュースを報じています。これはイギリスでマスターベーションを含む性行為の回数と前立腺癌との相関を調べた研究成果が発表されたことによるようです。これが本当だとすると、この分野では マスターベーションの回数が多いほど前立腺癌にかかりにくい との先行研究もあったのですが、それと真っ向から対立するセンセーショナルなニュースですね。

ただし、BBC などの記事を読むと、もう少し穏やかと言うか、必ずしもはっきりした研究結果では無いようです。わかっているのは

  • 20~30代の間の性交渉またはマスターベーションの頻度と年をとってから前立腺癌になる確率との間に相関がある
  • 50代の性交渉またはマスターベーションの頻度は逆に前立腺癌と負の相関がある、つまりマスターベーションの多い人ほど前立腺癌にかかりにくい

ということのようです。

異性との性交渉とマスターベーションは区別されていないように見えます。おそらく性交渉かマスターベーションかを問わず、射精の頻度が重要なのだと推測されます。

また、因果関係の方向についてもわかっていません。仮に性交渉やマスターベーションをするから前立腺癌になる、という因果関係であれば、性交渉やマスターベーションを我慢することによって前立腺癌のリスクを下げられる可能性があります。ただし記事を読む限り、今回の調査を行った研究者はそうは考えていないようです。もともと前立腺癌になりやすい体質の人ほど射精への情熱が高いのではないか(男性ホルモンの量などで)、との読みのようです。その場合、マスターベーションを我慢しても体質が変わるわけではないので、前立腺癌のリスクを減らすことはできないと考えられます。

また、調査手法についても疑問の余地が無いわけでもありません。この研究では、前立腺癌にかかった人とそうでない人に対して、若い頃の性交渉やマスターベーションの回数を思い出してもらってアンケート方式で調査したとのことです。果たして記憶がどこまで正確かと言う点には疑問が残ります。ひょっとしたら、男性ホルモンの量の多い人は「俺も若い頃は凄かったんだよ」と虚勢を張りたがる、という話なのかもしれません。より明快な方法での追試が待たれます。

コンテンツ格差

written by ultraviolet on

ある権利者側の人間の呟き2  結局コンテンツに金払うっていうのが定着しない っつう嘆きの声がある一方で、モンティ・パイソンは公式YouTubeチャンネルを開設してDVDの売り上げが23000%増えた! なんてやたらと景気の良い話もある。どうも格差社会が進行中なのは正社員vs派遣社員じゃないらしいですよ。しかしなんでそんな格差が生じちょるのかね?
いろんな理由はあると思うんだけど、ここでは敢えて極論を書いてみたい。金を稼げるコンテンツなんてものが元来ごく一握りしか無くて、今まではそれが水増しされてただけなのよ てのはどうだ。

いやすまん。今日はほとんど根拠無く思いつきで書いてる。やー実は結婚の準備ですげー忙しくてさー。今週は招待状の宛名書きとかドレスの試着とかに追われるのよ。ポストのクオリティが下がっても許して。

閑話休題。無料で試聴できた方がCDの売り上げが良くなる、という話は前から言われてて、そういう研究結果もわんさかある。でも実際音楽市場全体の売上が下がってるっつう現実もある。この一見矛盾する状態を綺麗に説明するにはどうしたらええんぢゃろ、と考えてみた結果、こういう仮説が頭にひらめいたわけだ。

  • 本当に金を稼げるコンテンツは、無料で試聴などできれば売り上げが上がる
  • そうでないコンテンツは、無料で試聴とかできると逆に売上が下がる
  • 今の市場に溢れているのは、後者のコンテンツが大半

いや、これが絶対正しいと言うつもりは無いよ。ただ、こう仮定するといろんな話を矛盾無く説明できるんぢゃがのう、という話。

もしこの仮説が正しいとすると、それはこういうことだと解釈できるんでないか。
もともと金を稼げるコンテンツなんてものはかなり限定されてた。ほとんどのコンテンツは、微々たるぐらいしか金を稼げない程度のものだった。ところが近代になりメディア産業が興隆するに及んで、本来金を稼げないコンテンツでもいろいろ策を講じて売りつけることで結構無理やり市場というものが作られてきた。著作権で囲い込むとか。そうやって適正水準を超えて売れる状態が人為的に作られ、多数の(本来なら金を稼げないはずの)クリエイターや権利者を養えるようになり、多数の雇用が創出された。
ところがディジタルな複製が簡単に作られてバラ撒かれる時代となり、その囲い込みが解け、市場が適正水準に戻りつつある。一部のコンテンツは逆に売上が増えるけど、全体として水増しされた雇用も元に戻るので、これから大量の失業者も出るぢゃろう。こりゃコンテンツ立国なんてのも厳しいんでないか。
とかそういう。

逆に、この解釈部分で現実に照らしておかしい部分があれば、最初に書いた仮説も信憑性が下がるという話になるかと。どうぢゃろ。とりあえずはやっぱ「実際に海賊版で被害を受けてる朕のコンテンツはダメコンテンツと申すか!」的な怒りの反論が来ますかね?

まあ確かにコンテンツの質だけが全てっつうわけでもないとは私も思います(弱気)。例えば Monty Python が 23000% も伸びた話について言えば、Monty Python というコンテンツが本当に素晴らしい質だというのももちろんだけど、1スケッチ分だけを見てもその面白さが理解でき、かつ DVD で1エピソード通して見るとスケッチ間の連携により全体の面白さがさらに際立つ、っつー頭のいい構成にも原因があろうな。まさに21世紀のYouTube 時代を見越したかのようなコンテンツ。時代に合ってる/合ってないてのはあるかもなー。

なぜ日本で起業家が増えないか

written by duke on

日本で起業家が少ない理由には様々なものがある。大半は既に 日本に起業家が少ない理由起業家を少なくしている7つの日本的主義 などで指摘されているし、ultraviolet も Twitter で 「○○業は給料が高い」と羨む人は多いが、そこで「そんなに無駄に人件費を払ってるなら俺が新規参入すれば市場競争で圧勝できる」と考えられる人が出てこない国では資本主義は育たない などと呟いている。
それらに加えて、ここでは巷の議論にあまり上らない理由を付け加えたい。それは、日本人は面倒くさがり屋 という理由である。あるいは、頑固職人は起業に向かない とも言い換えられるだろう。

日本人は勤勉だが同時に面倒くさがり屋でもある。決められたこと/やらなければならないことは勤勉にこなす。にも関わらず、面倒な手間を自分でやりたがらず、他人任せにする性質も強い。
この点において日本人と対照的なのがアメリカ人である。勤勉な日本人が他人に任せたがるのに怠惰なアメリカ人が他人任せにしようとしないタスクというものが結構ある。たとえば銀行口座からの自動引き落とし。アメリカ人は公共料金の支払いに毎月自分で小切手を切り、銀行任せにしたがらない。銀行が信用できないという事情もあるのかもしれないが、それより「コントロール権を手離したくない」という感情が強く存在しているようだ。同様に、アメリカ人はサラリーマンでも所得税を確定申告する。80~90年代のアメリカで Quicken や Microsoft Money が売れてPCが普及したのは、確定申告の必要性のためであった。

勤勉だが面倒くさがり屋という一見矛盾する性質は、頑固職人 なのだと考えると納得し易いかもしれない。頑固職人は、自分の専門テリトリー外のことを面倒くさがり、他人任せにしたがる (頑固職人の妻というのはだいたい苦労するものである)。そして多くの日本人には、程度の差はあれ、頑固職人的なメンタリティがある。この場合は、頑固職人を「オタク」と呼び変えても良いだろう。

一方、面倒くさがりでは起業家はつとまらない。あらゆることを自分でやる、あるいは最低でも自分で判断する必要がある。その最初のことが「起業する決断」だろう。頑固職人にとっては、起業しようと決断することからしてまず面倒くさいのだ。そんなことより自分の技を極めることの方が遥かに重要なのだろう。起業よりも敷居の低い決断として転職があるが、日本の大企業には転職する決断すら面倒くさがる職人技術者が大勢いる。
そう、大企業というところは、頑固職人にとって意外と居心地が良いのだ。もちろん組織の中で働く以上様々な不満もある。しかし面倒事を組織の他の人任せにできるという点は大きい。経営上の責任も上部が負ってくれるので、自分は思う存分自分の専門分野に専念できる。不満は他人のせいにして愚痴をこぼしていればいい。
頑固職人の性格を前提とすれば、これも十分合理的な判断だと思う。起業ポルノでは 技術的に優秀な人が、合理的に考えて戦略を立ててゴールを目指すと事業になるが、職人として腕を磨くことに注力すると一匹狼として、人知れず活躍しているだけという状態になる として否定的に捉えているが、頑固職人にとっては後者の方が幸福なのだろうと私は睨んでいる。

では、日本で起業を増やすにはどうしたらいいか。
日本国内で起業家を増やすという考え方自体に困難があるような気が私はしている。頑固職人は起業家になりたがらないからだ。起業家無しで起業を増やすという考え方にスイッチした方がおそらくコスト対効果が大きい。頑固職人が起業家にはならないままで起業に関れる、という仕組みを用意するのが得策でないか。例えば、起業家を国外から輸入するというのもアイデアの一つだ。起業と技術者を国際分業するのは比較優位の原理にもかなっていると私は考える。

WordPress の拡張性

written by ultraviolet on

なんか日本では WordPress は Blog に特化していて、MovableType は総合的な CMS を目指してる みたいな感じで認識されてるみたいな感じが、たとえば WPかMTかって、性能の問題だけなんだろうか? あたりを見てるとどうもあるっぽいんですが、2005年に WordPress 1.5 で Rauru Blog を動かし始めてそろそろ4年になる私の感覚はかなり違います。
WordPress こそ、本当に blog なのかすらわからん得体の知れない超あやしいものになってしまったぜよ。MovableType とはまた別のベクトルを向いた総合 CMS を志向してる。

私の捉える WordPress の特徴を一言で言うと、野放図と言っていいほどの plugin 拡張性です。
日本ではそれがあまり理解されてないようで、どっちかつうと 初心者でもインストールしてテーマを入れれば簡単に使える blog ソフトウェア みたいに捉えられてますが、それは一面しか見てませんな。plugin の無い WordPress など、メモリの足りない Windows Vista PC のようなもの。

plugin 拡張性がワイルドなのは、MovableType と違って最初から静的生成を切り捨てて動的生成のみのサポートに絞っていたことに起因してると思われます。多くの plugin は、ユーザがアクセスしてきた時点で動き、ダイナミックなレスポンスを生成することができます。SQL のクエリを書き換えることまでできる。これが セキュリティホールの温床 になっていることは前にも書きましたけど、まあ何だってできてしまうわな。静的生成か動的生成かの違いは、単にポスト時の再構築時間の問題ではなく、 plugin によって何を機能拡張できるかに大きく関わってくるんですよ。

あと、plugin まで行かなくても、theme だけでも結構な機能追加ができます。これは WordPress の theme ってやつが単なるテンプレートじゃなくて PHP のコードが直書きされてるれっきとした実行ファイルであることに拠ります。
本当はこれもかなり危険なんですけどね… みんなさー、無料 WordPress テーマ集とかいうエントリがよくはてブで hotentry 入りするけど、そういう出所の不確かな無料 WordPress テーマに潜む危険性ってちゃんと認識してる? MovableType のテンプレートと違って WordPress のテーマにはサーバに感染するマルウェアを仕込ませることができるんだよ? まあそれぐらい何でもできるってことで。

また WordPress は、かなり初期から、Blog の書き手だけでなく読者まで会員としてデータベースに登録することを想定して作られてます。メンバ権限として subscriber てのが昔からあったよね。おそらく、会員登録した人だけコメント可、とかいう使われ方が想定されてたんだとは思いますが、コミュニティサイトとしての性格も備えていた様子。

そんな風なので、theme と plugin を組み合わせることで単なる blog の枠を超えて使われてる例が海外では結構あります。
CNet News がニュースサイト全体の CMS として WordPress を使ってることは有名ぢゃな。これは、Automattic を立ち上げる前の Matt Mullenweg が CNet でサイト構築担当として働いてたためです。
その他の用途としては、WordPress Publisher Blog が詳しい。WordPress の原型を留めてないようなサイトを多数紹介してます。雑誌サイトだったり(たいてい Magazine テーマを使う)、通販サイトだったり、Q&A投稿サイトだったり、自治体の地域情報提供サイトだったり。
あと Twitter みたいな microblogging を WordPress 上で実現する Prologue もあって、わざわざ WordPress 上でやる意味があるんかいと思わんでもないけど、コミュニティサイトの一貫としてデータベース連携があるとひょっとしたら便利なのかもしれん。そうそう、その手の会員データの共有てのもいろいろあって、例えば MediaWiki とかの会員データを WordPress のと同期させる とか。掲示板だと bbPress てのもあるし。

なんですが、そういう機能拡張を、GPL なフリーソフトウェアとして大勢の人が勝手に作ってて、全体としてまとまりが無い、てのが WordPress のもう一つの特徴かと。MovableType なら Six Apart が明確な方向性を打ち出しててそれに沿った拡張がリリースされるわけですが、WordPress はそういう統制が皆無なんです。膨大な数の plugin があるにはあるものの、玉石混交だし、お互いコンフリクトすることも多く、うまく使うための情報もあちこちに散らばってるので、特に日本人にしてみると全貌がさっぱりわからん、てことになりましょう。あと コードがすごく汚い し。
この辺は Matt が WordPress の方針として明言してます。WordPress のコアは極力シンプルなものだけを用意し、それを超える機能拡張はフリーソフトウェアコミュニティに任せる、と。

なんで、冒頭の記事にあった 不思議なのは、挑戦しているのが商用ソフトでもあるMTで、オープンソースのWPではないという点です てのは私の感覚とかなり違う。おそらく、新しいところに挑戦してるてことなら WordPress の方が多い。ただそれは、コア開発メンバではなく、フリーソフトウェアコミュニティとして開発が進められてる。WordPress がシェアで MovableType を追い抜いた最大の要因は、そういった開発コミュニティに強くアピールしたからでしょう。4年前のライセンス問題という Six Apart 側の失点もあったし、初心者PHPプログラマでも強力なpluginをできるようなアーキテクチャ(その分セキュリティが犠牲になっている)も大きかったと思う。その辺が、日本ではまだ理解されてないなとは思います。私だってほんの一部しか把握できてないもんな。とりあえずはよ BuddyPress 動かさんと。

ビジネスとして見た場合に WordPress ってどうなんぢゃろうねと思うことはあります。Automattic は去年までに 相当な出資を集めた けど、今年はサブプライム問題のあおりを食って厳しいんじゃないかなー。Automattic が何で稼ぐのか って、未だによくわかってない。その点、Six Apart はビジネスとして考えてるっぽく見えますな。そうやって考えたライセンスがユーザに嫌われたりもするけど。